夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

【青天を衝け】ペルゴレーズの館は現存するか【徳川昭武】

こんにちは。

夏川夕です。

 

『青天を衝け』、いよいよパリ編に入りましたね。私は大学1年生の夏休みに、大学図書館の書庫で徳川昭武に出会って以来、ずっとこの辺りの幕府外交について勉強してきました。更に勉強した幕府外交を物語のかたちにしたくて、徳川昭武を主人公に据え、今まで2回小説を書いています。ですから今回の大河ドラマは、当然初めて見るシーンばかりなのに、小説を書くために想像していた景色に似たシーンがたくさんあって、まるで自分の小説が映像化されたように楽しんで観ています。その一方、万博会場でのJaponとRyu-Kyuの展示場所の位置関係や、ナポレオン三世との謁見の様子など、自分一人で調べたり想像するにはどうにも限界のあった点についていくつか疑問を解消することができ、勉強資料としても大変ありがたいドラマです。

 

さて7月11日放送の第22回では、渋沢栄一が昭武のパリ用の住まいを借りる一幕がありました。公式サイトでは「ペルゴレーズの館」と称され、360度ビューが公開されています。細かいところまで設定されていて、大変興味深いです。昭武の寝台など、私には思いつかない様式で、なるほどなと思いました。

この「ペルゴレーズの館」ですが、Twitterや個人サイトなど見ていると、「今でもパリに現存する」などと記載されているものがいくつか見られます。確かにパリは空襲もなく、例えばドラマ中で渋沢が見ていた皇帝ナポレオンの墓や廃兵院(アンヴァリッド)は、今でもほとんど当時のままの姿を見られるようです。昭武たちが宿泊したLe Grandというホテルも、現在も当時と同じ、オペラ座の隣に建っています。しかし昭武の「ペルゴレーズの館」が現存するという話については、私はいくつかの理由から、長年疑問を持っていました。せっかくなので、この機会にとりまとめてみようと思います。もし何か情報をお持ちの方がお出ででしたら、ご提供いただけますと幸いです。

  

そもそも、「ペルゴレーズの館」が現存するという話は、どこから出てきたのでしょうか。私は、宮永孝氏が書いた『プリンス昭武の欧州紀行』がその発端ではないかと考えています。というか私が知る限り、書籍のかたちでは、この本以外に「ペルゴレーズの館」が現存するという話は出ていないように思うのです。この本は2000年刊行で、タイトル通り、昭武のフランス訪問とその後の外交および留学生活についての入門書のようになっています。写真や図版も多く、それほど歴史が得意でなくとも読みやすい1冊です。問題の文章は65ページから始まります。

……昭武主従はパッシー区ペルゴレーズ五三番地に転宿した。新しい住居は、凱旋門にも近く、閑静な高級住宅地のパッシー街とマラコフ通りとが交差するところにいまもある。この建物は現在、共同アパートとして用いられているようである。

ペルゴレーズ通りの53番に建物があること、それが現在共同アパートであるのは、私も現地まで行って確認しています。次の写真が現存するとされている建物です。

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正面に見える建物ですね。真ん中に入り口があり、ここからコの字型もしくはロの字型になっている建物に入れます。現在は普通に人が住んでいるアパルトマンなので、中には入れません。

現存の建物と比較したのは、名古屋の蓬左文庫が所蔵している『徳川民部大輔様フランス國パリ御旅館ノ圖』です。簡単に言うと、昭武が住んでいる館の見取り図です。私は以前、蓬左文庫からコピーを購入していて図は手元にありますが、権利関係がよくわからないので、ここに掲げるのは控えます。もし掲載してもよさそうであれば、後日、この記事内に掲載します(『青天を衝け』公式サイトにも、松戸戸定歴史館所蔵の図が掲載されています。ちょっと小さいのですが、よければそちらをご参照ください)。

 

さて、現存の建物と当時の見取り図を比較したうえで、私は現存の建物が昭武が本当に住んだ建物であるか疑問を持っています。主な理由は、次の4点です。

①現存する建物は6階(もしくは5階)建てであるが、『徳川民部大輔様フランス國パリ御旅館ノ圖』によれば、昭武が住んだ建物は3階建ての可能性が高い。

②『徳川民部大輔様フランス國パリ御旅館ノ圖』によると、建物の内側に馬車置き場と7頭の馬を繋げられる厩があるが、現存の建物の扉は大きくなく、馬引きの馬車で入れるか怪しい。

③『徳川民部大輔様フランス國パリ御旅館ノ圖』に記載されている「御門」の横の「通用門」が、現存の建物には見えない。

④『徳川民部大輔様フランス國パリ御旅館ノ圖』によると、裏庭が「アヘニュードアンベラトリース」もしくは「第五十番」に接しているが、現存の建物の裏手は通りには接しておらず、50番地もない。

 

順に説明していきます。

まず①ですが、現存の建物は明らかに5階建て、もしくは6階建てですね。見取り図の方は、1階と2階が並べて描かれてあり、2階の図の下部に、「△印之所三階アリ略之」と書かれています。この書き方ですと、昭武が住んだ館には三階が部分的にしかなかったように読み取れますね。ただ、図中に△印は2か所あり、どちらにも階段が描かれていて、ここから三階に上がれるよ、とも読めるので、これだけでは現存の建物と一致しないことの証拠にはなりません。

次に②は、現存の建物の写真だけでもわかりやすいかと思います。現存の建物の門は、高さはありますが、横幅はそれほどありません。手前の車と比較していただくと、車が通るのはちょっと無理じゃないかな、という幅であるのがわかると思います。馬車は車よりは多少小さいかもしれませんが、それでも二、三人並んで座れる幅を考えると、現存の建物の門は狭すぎるようです。

③は明らかです。現存の建物には、門は一つしかありません。しかし見取り図の方には、正面の「御門」の右に、「通用門」とはっきり書いてあるのです。後で通用門を閉鎖したにしても、現在の門の両側の窓は シンメトリーになっているので、全体を作り替えなければ、このような配置にはならなそうだとわかりますね。②の馬車のことがあるので、「御門」と「通用門」を潰して現在の門のかたちにした、ということもなさそうです。現在以上に門が狭かったとなると、ますます馬車は通れなくなってしまいそうです。

④はちょっと難しい問題です。まず見取り図の方を見ると、建物の裏手は庭になっていて、その一辺のわずかなところを指して、「第五十番 アヘニューアンベラトリース」という記載が見えます。建物の表側の方には、通りに沿うように「ペルゴレーズ街 第五十三番」と記載されているので、「第五十番 アヘニューアンベラトリース」も地名をあらわしているのだとわかります。「アヘニューアンベラトリース」というのは、今は「アベニューフォッシュ」と名前を変えている大通りです。ここまでは調べたらすぐにわかります。ところが、本来なら地域を特定しやすいこの表記が、かえって館の位置を何ともややこしくしているのです。

まず「アヘニューアンベラトリース」の記載についてですが、現在のペルゴレーズ53番の裏手には、確かにフォッシュ通りが通っています。ただし、現在の53番と通りの間には別の建物が建っていて(あるいは現存の建物がロの字型になっていて)、通りには接していません。見取り図の方は少なくとも裏庭の一部が通りに接していることになっており、無理に図と現実を一致させれば、庭がめちゃくちゃ広かった、もしくはフォッシュ通りが現在よりもっとペルゴレーズ側に寄っていたことになります。次に、「第五十番」の記載ですが、現在のフォッシュ通りの50番は、ペルゴレーズ53番とワンブロック挟んで同じ並びにあり、どう描いても見取り図のようにはなりません。これも無理やり解釈すれば、当時の50番と今の50番の位置が違う、もしくは図を間違って描いたか、大幅に略したことになります。

真相はわかりませんが、どういう理由であれ、見取り図と現存の建物は、周辺との位置関係が一致していません。この事実により、この辺りで区画整理があった可能性、あるいは少なくとも、当時の建物は取り壊されている可能性が補強されます。補強しないのは、「第五十番 アヘニューアンベラトリース」までのワンブロック分を、間違えたか略したかしているときだけです。しかし、自分の住んでいる建物の位置を間違えたり、わざと略したりするというのは考えにくいですね。

 

こうした4つの理由から、私は現存の建物と昭武が住んだ建物は別のものではないかと考えています。繰り返しになりますが、現存の建物が昭武の住んだ建物そのものである、と断定しているのは、私が知る限り、宮永氏の本だけです。氏がどうしてそう断定したのかという根拠は見つけられず、ひょっとしたら私が知らない決定的な資料があるのかもしれません。もしそういうものがあって、現存説が本当なのであれば、当時の建物が現存していて嬉しいと素直に思いますし、もし間違っているのであれば、現状誤った情報がネットに散見されますので、今後訂正されればいいなと思います。

なお、氏の『プリンス昭武の欧州紀行』は、私に徳川昭武を教えてくれたいくつかの本の内の1冊であり、この本との出会いがなければ、私はこの記事を書いていなかったと思います。今回の大河ドラマがよりよくわかる参考書にもなりますので、興味のある方はぜひ手に取ってみてください。

 

 

 

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