夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

2400年のアメリカに日本人登場。E.R.バロウズ『The Red Hawk』の感想&解説

こんにちは。

夏川夕です。

 

<月シリーズ>最終巻、『The Red Hawk』を読み終えました。1巻がバロウズパターンの裏返しの物語、2巻はバロウズの思想の物語としたら、3巻はバロウズの趣味全開の物語と言えます。バロウズの書く主人公は、火星や地底世界やジャングルなど、数々の世界で王者になってきましたが、<月シリーズ>では、とうとうアメリカ大陸の王者が誕生します。

今回も、どんどんネタバレしていくので、未読の方はご注意ください。

 

 

 

第1巻・2巻の感想&解説はこちらです。↓

natsukawayu88.hatenablog.com

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<月シリーズ>第3巻の物語

『The Red Hawk』は、第2巻から300年余りも未来の物語となります。第2巻の終盤でジュリアン9世が起こした革命が発端となり、アメリカ人はカルカール人をアメリカ大陸の東端と西端に追い詰めます。物語の舞台はアメリカの西端で、東端との連絡はなく、「東端にもカルカール人の残党がいるらしい」とだけ語られています。

アメリカの文明レベルはほとんど古代にまで戻り、「かつて鉄の鳥が飛び、鉄の家が動いていた」ことがインディアンにより語られますが、アメリカ人たちは神話としてとらえ、信じていません。天動説を信じ、世界は平坦だと考え、「カルカール人を海に追い出せば、彼らは世界の端から落ちてしまう」と、カルカール人をアメリカ大陸を追い出すのが、主人公・ジュリアン20世の目標です。その拠り所は<The Flag>と呼ばれる星条旗で、アメリカ国旗であるという由来も失われていますが、アメリカ人たちは先祖から受け継いだものとして、星条旗を偶像のように崇めています。

ジュリアン20世が率いるアメリカ人の集団と、皇帝オー・ティスが率いるカルカール人の集団は、100年もの間、山を挟んで膠着状態になっています。アメリカ人が水の少ない荒れ地に住む一方、カルカール人は肥沃な海辺に住んでおり、ジュリアン20世はそれが不満です。ジュリアンは海を見たことがないのですが、祖父のジュリアン18世がかつてカルカール人の土地を冒険し、「一日馬で行けば海が見える」と言い残していました。そのたった一日の距離を詰めるのに100年かかっていると、ジュリアンは考えます。

ジュリアン20世は、肥沃な土地をカルカール人から奪い、アメリカ人の土地にしようと決め、大規模な戦争を仕掛けます。戦争の混乱の中で、ジュリアン20世は逃亡するカルカール人の中に迷い込んでしまい、捕らえられてしまいます。皇帝オー・ティスはジュリアンに和平を申し入れますが、ジュリアンは突っぱね、彼の処刑が決まります。ところが処刑を待つ牢の中で、ジュリアンはもう一人のオー・ティスと出会います。彼はカルカール人の中にありながら純血のアメリカ人であり、カルカール人とアメリカ人の間に生まれたオー・ティスに玉座を奪われた、本物のオー・ティスだと名乗ります(ここ、物語的にちょっと矛盾していると思うのですが、後で考えてみます)。ジュリアンはオー・ティスを憎むよう教育されていますが、このオー・ティスに思うような嫌悪感は抱けず、彼と協力して牢を逃げ出します。

逃亡の中でオー・ティスと別れたジュリアンは山に迷い込み、山の上から初めて海を見て、次いで山に住む日本人と出会います。日本人もまた、カルカール人を憎んでおり、ジュリアンはカルカール人を海に追い込む決意を新たにします。

一族の元へ戻ろうとするジュリアンは、カルカール人に追われている娘・べティルダを助けますが、彼女も本物のオー・ティスの一族の者でした。べティルダに恋したジュリアンは、オー・ティスの一族を好きになってしまった自分を責めますが、彼女を放っておけません。一族の元に帰るより、再びカルカール人に攫われてしまった彼女を助ける方を選び、単身カルカール人の邸宅へ乗り込みます。そこへ本物のオー・ティスの知らせによりジュリアンの一族が駆けつけ、元はオー・ティス一族のものであった邸宅を、カルカール人から奪い返します。

ジュリアンはベティルダに愛を告げ、ここにジュリアンとオー・ティスの数百年に及ぶ確執は解消されます。ジュリアンはアメリカ大陸の王となり、ベティルダはその妻に、そして二人の子は、次の王であることが約束されます。それから2年後、アメリカ人はカルカール人を海へ追い出し、カルカール人は世界の端から落ちてしまうか、あるいは地球が丸いなら、アメリカ大陸の東海岸へ戻って来るだろうと予言されて、物語は幕を閉じます。

 

バロウズがサーガに与えた結論

<月シリーズ>第3巻は、話はシンプルなのに、何だか評価の難しい作品です。いつものバロウズパターンなのに、舞台が異世界ではなく地球であるということが、物語をシンプルに受け取れなくなっている原因かと思います。地球の物語ということは、他人事ではなく、私事になりますものね。おそらくバロウズの中でも、次のような葛藤があったのではないかと思います。

アメリカ人(地球人)にカルカール人を結び合わせたくない

アメリカ人の王者をつくりたい/あるいは主人公は王者になるべきだ

③ジュリアンとオー・ティスの確執を昇華させたい

①はとても難しい問題です。カルカール人は第1巻から登場していますが、月世界の堕落した民族として書かれ、地球を征服してからも、一貫して尊敬できないヴィランとして扱われています。地球人とカルカール人の間に子供はつくれる設定であり、ジュリアンのライバルであるオー・ティスも、カルカール人の女性との間に子供をもうけ、その子孫が脈々と皇帝の座を受け継いでいます。ジュリアンの宿敵は、ヴィランヴィランが掛け合わさったものというわけです。物語のセオリーとしては、ジュリアンがこのヴィランの混合した者を倒すか、和解するかのどちらかになります。

ところが、バロウズの「アメリカ人とカルカール人を結び合わせたくない」という希望(?)により、物語はどちらの道も選択しません、<純血のオー・ティス>という者があらわれて、<ジュリアン対オー・ティス&カルカール人>であった物語の構造が、<アメリカ人対カルカール人>に置き換わっているのです。<純血>ということは、オー・ティスはカルカール人のほかに、地球人の女性とも子供をつくっていることになります。<純血>のオー・ティス一族は何百年もカルカール人と共に生活をしているのですが、そんな状態で<純血>を守れるのか、ちょっと怪しんでしまいます。

②はバロウズの趣味でありつつ、物語の構成としてもセオリー通りになっていると思います。王者を倒した者が次の王者になるのは自然界では当たり前のことで、オー・ティスは第1巻から王を名乗っていますから、彼を倒したジュリアンが次の王になることに違和感はありません。

しかし問題は、この物語はアメリカという国を舞台にしているということです。アメリカはご存じの通り、「人間が支配できるのは自分自身だけである」という理念のもとに建国された、いわゆる自由と平等の国ですから、星条旗を掲げて王になるのは、日本人の私でもなんだか違うように思えてしまいます。しかもジュリアンが皇帝オー・ティスを倒すシーンは描かれず、玉座についていない<純血>のオー・ティスが、ジュリアンを王だと認めるだけなので、いま一つ達成感みたいなものがなく、ジュリアンが玉座に着くには説得力に欠けているんですね。アメリカ人の王をつくりたいが先行したのかなーとも思えてしまいます。

③は①と②を下敷きにしたうえでの話になります。ジュリアンとオー・ティスは、第1巻からライバルとして描かれ、互いに認めるところがありつつも、気に喰わない存在というのが強調されています。第3巻でのジュリアンは、先祖から受け継がれた後天的な嫌悪感をオー・ティス一族に抱いており、皇帝オー・ティスのジュリアンに対する感情も同じに見えます。しかしそれは、ジュリアンやオー・ティスの個人的な嫌悪感というよりは、アメリカ人とカルカール人という、民族的なところに根差したものの方が強いように感じます。一方、<純血>のオー・ティスはカルカール人に嫌気がさしているので、ジュリアン一族に加わることを望んでいます。ジュリアンも、<純血>のオー・ティスが思ったほど嫌な男ではないと感じています。有体に言えば、勝負はもうついてしまっている感じなんですね。

そこでバロウズは、オー・ティス一族の女性、ベティルダをジュリアンの相手役に登場させています。ジュリアンはベティルダに一目惚れし、ジュリアンとオー・ティスの結婚をもって、確執の解消と結論付けています。お話としてはシンプルできれいですが、何百年も続いた確執の結果にしては、ちょっとあっさりしすぎている印象です。

まとめると、500年に及ぶサーガである<月シリーズ>に対してバロウズが与えた結論は、「カルカール人との完全な別離」「アメリカにおける王の誕生」「恋愛による確執の決着」という3点でした。第2巻が当時の世相を映して面白かっただけに、いつものバロウズパターンをシンプルにアメリカに持ってきたこの結着の仕方には、少々疑問を感じざるを得ません。

ただ、カルカール人が西の海に逃げ出し、東から戻ってくるかもしれないという予言は、実に暗示的です。アメリカの王となったジュリアンの弟が呟くその言葉には、物語を大団円で終わらせてなお、バロウズが抱く危機感のようなものがほのかに見えました。

 

 バロウズの描く日本人

さて、そもそも私がこの<月シリーズ>を読もうと思ったのは、最終巻に日本人が登場すると聞いていたからです。以下の記事にも書いていますが、バロウズは東洋に愛着を持っていた節があり、それがバロウズの構築する異世界に、重厚な魅力を添えています。

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『The Red Hawk』に日本人を登場させるにあたり、バロウズは日本について調べたか、あるいはもともと興味があって知識を持っていたのではないかと思えます。それほど、彼の描いた日本人のキャラクターは、当時の資料から抜け出てきたようにステレオタイプです。物語の流れに沿って追ってみましょう。

カルカール人の町から逃げて山の中に入り込んだジュリアンは、動物の皮をポールで支えた、小さな小屋を見つけます。この小屋は明らかにインディアン風ですが、ジュリアンは「とても小さい」と評しています。小屋からは男が顔だけを出しますが、ジュリアンは男の顔の位置があまりに低いので、男が座っているものと思いながら話をします。男は黒く太い髪をざんばらにしています。

やがて男は警戒しつつも小屋から踏み出してきますが、そこで初めて、ジュリアンは男が子供のように小さいことに気づきます。身長は1メートル前後と書かれていますが、当時の日本人としてもちょっと小さすぎますね。ただ、茶色の肌に覆われた筋肉はよく発達しているともあります。

ジュリアンは男に挨拶しようと手を差し出しますが、男はその意味がわからず、後退りします。これは明らかですね。握手になじみのない日本人の反応です。ジュリアンは男の警戒をなんとか解こうと微笑んでみせると、男も微笑み返し、「カルカール人は自分たちに微笑まないから」という理由で、ジュリアンを敵でないと認定します。

すると、安心して女子供たちも小屋から出てきて、ジュリアンを興味深そうに囲みます。そのシーンを少し引用してみましょう。和訳は私がしているので多少間違っているかもしれません。

彼らは人のいい好奇心いっぱいに、私の周りに寄り集まった。彼らは幸福で優しい、小柄な人々だと私にはわかった。……彼らは明るい茶色の肌をしていて、(インディアンとは)異なる形の頭と吊り上がった目をしていた。見目好い姿の小さな人々で……子供をかわいがり、一緒に笑うのがたまらないようだった。……女性はいつもおしゃべりしながら笑い、私をちらと見ては、手で覆いながらくすくす笑った。……彼らはとても幸福な人々のように見えた。

この描写はそのまま、外国人が見た江戸時代末期の日本の様子に当てはまります。日本人というのは、「笑い、子供をかわいがる、小さな民族」というのが当時の西洋におけるステレオタイプだったようです。バロウズがこの物語を書いたのは1920年代なので、日本も大正時代に入り、帝国として列強に連なっていますが、バロウズ自身はわざとか東洋への願いとしてか、執筆当時から見て50年前の日本を2400年のアメリカに配置しています。

彼らは「Nipons」と名乗り、先祖は遠い海の真ん中にある島に住む、「Mik-do」という巨人だと言います。Niponsは死んだらMik-doのそばに行き、一緒に暮らすというのを一種の宗教のようにしています。Mik-doは明らかにミカドのことです。

日本の象徴である「天皇」については歴史を通して様々な呼び方がありますね。今は「天皇」とか「陛下」が一般的ですが、古くは「大君」「大王」などとも呼ばれていました。江戸時代は、どうやら「ミカド」という言葉が一般的だったようで、幕末の徳川幕府の外交では、「ミカド」という言葉が「ショウグン」という言葉と共にイギリスやフランスに知られています。ひょっとしたら今でも、海外では「天皇」より「ミカド」の方が通りいいかもしれません。グリコのお菓子・ポッキーは、海外ではMikadoという名前で売っていますし、私がアメリカに住んでいたとき、やはり日本のシンボルは「ミカド」だと習いました。バロウズも、日本のシンボルは「ミカド」だと何かで読んだのかもしれませんね。

Niponsはジュリアンを助け、山道を教えてくれます。それどころか、ジュリアンを案内するとまで言い出します。とても思いやりのある人々だと書かれているんですね。

ジュリアンに山道を案内するため、Niponsはテントを崩し、荷物をすべて馬に積みます。Niponsの馬は普通の馬の半分くらいの高さで、もじゃもじゃとした毛並みを持ち、とてもゆっくり動くと描写されています。大きなお腹と特徴的な耳を持ち、頭も大きくて不格好です。気性は優しく、子供が足の間で遊んでいても踏みつけたりしない動物のようです。体が小さくてお腹が大きいのは日本馬の特徴だと思うのですが、「羊のよう」とまで書かれている毛並みは、どうなんでしょうか。このあたりは知識がなくてよくわからないのですが、家財道具を小さく圧縮して馬の背に詰むというのは、いかにも日本らしいなと思います。外国人が幕末の日本を見て驚いたことの一つとして、こまごまとした道具を使い分けて、一つの部屋を食堂としても寝室としても使用する、ということがあったようです。ヨーロッパやアメリカは、習慣的に用途によって部屋を使い分け、家具もそのように配置しますから、フレキシブルな日本家屋は印象が深かったようですね。子供たちが馬の脚の間で遊ぶというのも、「子供の国」とまで称された日本のイメージがよく出ています。

さて、このあともNiponsはジュリアンの水先案内人として活躍するのですが、物語が進むにつれてフェイドアウトしていくので、この辺りでやめておきます。

しかし、ここまででもわかるように、バロウズはどちらかといえば好意的に日本人を書いています。当時、アメリカから見た日本は、第一次世界大戦を一緒に戦った仲間ですし、列強の一つにも数えられていたため、共産主義国家のソ連に対するアメリカの前哨基地みたいな意味合いがあったかもしれません。日本は1905年の日露戦争で、ソ連の前身であるロシアに勝利してもいますね。そうしたイメージが物語の中で、共産主義を象徴するカルカール人に対する、ジュリアンの補佐役というNiponsの位置によく出ているように思います。

一方、アメリカ西部では日本移民の増加が問題になり、移民が制限されたり、土地の所有が禁じられるなど、排斥運動が強くなっていました。これはほとんど緩むことなく、日米関係は太平洋戦争に突入していきます。

そういう背景を鑑みると、この時期にこういうふうに日本人を物語に登場させてくれたことは、とても嬉しいことのように思えますね。

 

ひょっとしたら:あまりネームバリューがない理由

さて、このようにバロウズ世界を楽しみつつも、彼の思想を垣間見ることができ、更に日本人にとっては嬉しい物語構成になっていながら、この<月シリーズ>は<火星シリーズ>や<ターザンシリーズ>ほど広く認知されているシリーズではないように思います。日本における<月シリーズ>はほとんど絶版状態になっているようですし、図書館にもあまり見当たりません。英語版のペーパーバックも、値段からしてみると、プレミア付きの中古販売が中心なのかなと思います。日本でもアメリカでも、普通に書店に並んでいる感じは、あまりしないのですね。

物語の構成的にはバロウズの肝いりらしいのに、なぜ<火星シリーズ>や<ターザンシリーズ>に比べて、<月シリーズ>はこんなにネームバリューがないのでしょう?

その理由は、いくつか推測できます。1つは、物語中でのインディアンの扱いです。『The Red Hawk』において、インディアンは"Slave"と称されています。彼らは土地に属するので、土地がカルカール人に支配されていればカルカール人の、アメリカ人に支配されていればアメリカ人の召使として扱われます。物語としては、カルカール人に仕えていたインディアンが、支配者をアメリカ人に変えることで、アメリカ人は親切であるという証言者の役割を果たしていること、また土地に属する民族性を強調することで、戦う民族となったアメリカ人と対照的に、アメリカの大地に根差す民族というエキゾチックなロマンを掻き立てる役割を担っています。

しかし、アメリカ人が支配者でインディアンがその召使であるという構造は、今の時代では肯定しにくいものです。むしろ悪役の背景としてふさわしいものですね。物語中でインディアンが与えられている大地に根差す民族という役割も、土地を奪われた民族というイメージの強い今では、皮肉として受け止められやすいでしょう。

また別に推測できる理由としては、<純血>が最終巻のキーワードになっていることがあげられます。ジュリアンが和解したのは、カルカール人と共生しているオー・ティスではなく、アメリカ人の<純血>だと主張するオー・ティスです。この展開は、今の時代に生きる私たちには、少し消化不良に感じます。カルカール人と共生しているオー・ティスと和解してこそ、異文化の垣根を越えてわかり合うという、意味があるのではないと思うからです。しかしジュリアンはその道を選択せず、<純血>のアメリカ人が団結してこそカルカール人を大陸から追い出せると主張します。これも今の時代に生きる私たちにはやはり敵側の論理であって、味方のものとは受け止めにくいですね。

更に先にも述べていますが、ジュリアンがアメリカ大陸の王となる幕引きにも、違和感を覚える人は多いでしょう。王というのは、今の物語構成では独占と支配の象徴であって、むしろ倒されるべき存在である場合が多いように思います。文化の異なる異世界であれば、主人公が王になっても比較的受け入れられやすいのでしょうが、舞台が平等を謳うアメリカであるだけに、余計に違和感が増すのでしょうね。

こうした理由から、<月シリーズ>は世相を反映して面白い読み物であるのは間違いないのに、その面白さを純粋に享受するのには、現在は少し難しい時代に入ってしまったのかなと思います。とはいえ、私は個人的に、今の価値観を昔の物語に反映しようとする姿勢は好きではありませんし、むしろ当時の価値観を尊重して受け止めるべきと考えます。

<月シリーズ>は、今の価値観にはそぐわない点も確かにありますが、読み物としてはバロウズを知っていればこその面白さがあり、執筆当時の時代の空気を感じることもできる貴重な作品だと私は思います。この章で述べたような理由から、広く販売することは難しいかもしれませんし、確かに当時の価値観を不快に感じる人もいるでしょう。しかし、バロウズの他の作品を面白いと思う人なら、この作品は物語的にもメタ的にも、楽しめることは間違いありません。

日本語の本を手に入れることは簡単ではなさそうですが、無理ではありません。文章はいつものバロウズ節なので、バロウズをよく読む方なら英語でも難しくないと思います。たくさんの人に、ぜひ読んでいただきたい作品です。

 

 

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