夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

歴史によって変わる「鬼」のイメージ

こんにちは。

夏川夕です。

 

今週のお題」【鬼】。 

「鬼」については、以前にもこちらのブログで書いたことがあります。

 

戦前のプロパガンダ映画を題材に、西洋を「鬼」と見る日本思想について。 ↓

natsukawayu88.hatenablog.com

 

日本独自の概念「鬼」は、清濁併せ持つ存在。英訳が”demon”ではワルモノ過ぎない?という観点から。 ↓

natsukawayu88.hatenablog.com

 

今回は、歴史学の観点から、「鬼」について考えたいと思います。


 

 

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秋田のなまはげ。日本人なら誰でもわかる、典型的な鬼のイメージです。

「鬼」の起源

「鬼」の絵を描いてください。とお願いしたら、たいていの日本人は、もじゃもじゃ頭に角を生やし、口からは牙の見える顔を描くでしょう。虎の皮のパンツを履き、手には金棒。色鉛筆があったら、鬼の肌は赤や青で塗られるに相違ありません。

しかし同時に日本人は、鬼の姿が一定でないことも知っています。『鬼滅の刃』で描かれるような、人に似た異形の者も、「鬼」として受け入れられていますし、鬼が美女や獣の姿をとることも無意識で理解されているでしょう。つまり、私たち日本人の中では、鬼の姿のステレオタイプこそあるものの、それが固定されているわけではないのです。

では、「鬼」というのは何でしょうか。

馬場あき子『鬼の研究』によれば、日本で記録された最初の鬼は、『出雲国風土記』に登場する「阿用の鬼」であるとされています。若い農民が、山から下りてきた一つ目の鬼に喰われた事件です。つまり古代日本での鬼は、「異形の者」「山から来る者」であったことが読み取れます。

時代が下って平安京の繁栄を迎えると、鬼は都にも姿をあらわします。時には雲に隠れて屋根を踏み鳴らし、時には深夜、閉ざされた門を叩きます。その姿はさまざまで、馬の顔を覗かせる者、毛むくじゃらの腕だけ伸びる者、姿を全く見せず、女を喰らうと行方をくらませる者……。共通するのは、「外部からやって来て」「害をなす」「姿の見えない/異形の」者ということです。

つまり、もともと「鬼」というのは、コミュニティの外から来る者、あるいはコミュニティから疎外視されている者であったことがわかります。これは現在の私たちにも、腑に落ちる「鬼」の定義ではないでしょうか。

 

変わる「鬼」の定義

しかし、貴族の統治する世から武士の統治する世に移行するとともに、鬼の定義も変容していきます。貴族の世では「恋人が鬼に喰われた悲劇」「鬼を仏の力で退けた宗教譚」などというのが鬼の物語の典型でしたが、武士が台頭するに従い、「侍が知力と武力で鬼を退治する物語」に変わっていくのです。そこで描かれる鬼は、「害をなす」者であることは引き継がれていますが、「姿の見えない=わけのわからない」要素は薄れ、むしろ獣や怪物の正体をあらわし、神通力はありつつも、血肉ある存在であることが強調されています。

さらに貴族の世と大きく異なるのは、鬼が必ずしも外部からやって来る者、あるいはコミュニティの中で疎外されている者ではなくなっていることです。鬼は時として主人公の母親であり、友人であり、仕事仲間であります。鬼が成り代わっている場合もありますが、もともと鬼であった、あるいはいつの間にか人から鬼に変容していた、と説明されていることもあります。この定義の変化は、物語として意外性を求めているのも一因でしょうが、社会が古代よりも複雑になり、実際にかつて仲間同志であったものが裏切ったり殺し合ったりすることが珍しくなくなったことも多分に影響しているのではないかと思います。

 

グローバル時代の「鬼」

いわゆる鎖国時代から開国の時代を迎え、西洋との交流が活発になると、鬼のイメージは二極化していきます。一つは、赤い肌に角を生やした、現在にも通じる固定化された怪物としての鬼のイメージ。そしてもう一つは、ぼんやり「敵」という概念でとらえられた、姿の定義がない鬼のイメージです。一見相反しているように見えるこの二つのイメージですが、私たちは特に矛盾を感じることなく両方を受け入れています。なぜなら、前者は物語に登場する鬼のイメージであり、後者は現実に存在する鬼のイメージだからです。

明治時代までの日本は、比較的、他国との争いが少ない歴史を持っていました。戦うことになる相手はたいてい同じ日本人、そうでなくとも同じアジア人であり、その敵としてのイメージは結びやすかったでしょう。しかし西洋と交流していくとなると、相手の文化も相手同士の交流関係もよく見えない中、誰が敵で誰が味方かもわかりません。一方でアジアは着々と西洋に植民地化されつつあり、その追い詰められていく恐ろしさは、今の私たちには想像もできないことと思います。

いわば日本人の世界観は、古代日本の、一山超えたら別の国、という時代に逆戻りしたわけです。ですから、古代日本のときと同じく、「鬼」は確固とした姿を持たず、ただぼんやりと「敵視」される存在になっていきます。その顔は、時代背景によってお面のように、中国になったりアメリカになったり、刻々と変わっていくわけです。

 

現在、鬼はどのようなかたちをとっているでしょう。大ヒットした『鬼滅の刃』に、そのヒントがあります。物語の冒頭、鬼に変化した妹を「元の体に戻すため」、主人公は元凶の鬼を退治することを目標にします。そこから読み取れるのは、「鬼から人に戻れる可能性を追い求めること」です。このテーマ自体は目新しいものではありません。しかし、「鬼から人に戻れる可能性」を追い求める主人公が、多くの共感を呼んだ時代背景には、着目すべきだと思います。「鬼から人に戻れる可能性」、それは、「外部から来る者」あるいは「コミュニティの異分子」を受け入れようと努力することです。私たちは、いったい何を受け入れようとしているのでしょうか。そして退治すべき元凶の鬼とは、いったい何なのでしょうか。

顔の見えない「鬼」は、私たち日本人を語り続けています。

 

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