夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

歴史学をやっていて、大人になったなと感じるとき

こんにちは。

夏川夕です。

 

今週のお題】「大人になったなと感じるとき」。歴史学を勉強していて、「大人になったなと感じるとき」を、私の経験から書いてみたいと思います。たぶんみんな、同じ道をたどると思うんです。

 

 

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歴史を疑うようになったとき

歴史学で大人になる第一歩は、歴史を疑うようになった時ではないかなと思います。歴史というのは、個人レベルから国家レベルまで、様々な視点を持ち得ますけれど、完全に客観的な視点はありません。必ず、歴史を学ぶ人の「私」がどこか入った視点になります。

幕末に起こった薩英戦争を例にとりましょう。この戦争は、ごく簡単に言えば、攘夷を目指す薩摩藩と、薩摩藩がイギリス人を斬り殺した、生麦事件に憤るイギリスの間で起きた戦争です。薩摩藩から見ると、攘夷に失敗して、倒幕に傾く契機となった事件であり、イギリスから見ると、幕府から薩摩藩に乗り換える契機となった事件です。徳川幕府から見ると、統治下にあった薩摩藩が離反し、かつ親交関係にあったイギリスとも距離ができた事件です。フランスから見ると、イギリスが離れたので幕府とより密接な関係を築けた事件であり、アメリカから見ると、日本という小国に対して、イギリスが大人げない対応をしたという事件です。

このように書くと、「へー」と思うかもしれません。しかし、薩英戦争に対するこの一連の評価は、本当に事実でしょうか。

私は日本史が好きで幕末の外交に興味があるので、さも世紀の一大事件のように書いていますが、実際はこの事件、イギリス本国はあまり関与せず、わりと日本駐屯のイギリス軍に任せていたとも言います。この事件が、アメリカやイギリスの新聞に取り上げられたことは事実ですが、大事件として取り上げられたかどうか、それは怪しいと思います(確認していないので、この点については曖昧ですが)。

つまり言いたいのは、上のように書いた簡単な文章にさえ、私の主観が大いに入り込んでいるのです。

歴史は情報の取捨選択、強弱のつけ方で、全く見え方が変わります。大学時代に教えていただいた教授には、「歴史は疑え」とさんざん言われました。論文に書いてあることも、支持されている説も、結局はその著者のバイアスがかかっています。本当に本当の史実は事実だけ、しかしそれすら、後世の私たちには、真実かどうかはわかりません。

「歴史」を鵜呑みにせず、疑いながら、自分なりの歴史観を組み立てていく、これが歴史学の真髄だと思います。研究書を読みながら、「本当かな」「あの人はああ言っていたけれどな」「私はこういう可能性もあると思うんだけれど」と考えるとき、私は「大人になったな」と感じます。

 

現地に足を運ぶようになったとき

大学時代の教授はまた、「歴史は現地に立て」とよくおっしゃっていました。現地に立って、実際の土地の様子を見ないと、本当には史料に書いてあることはわからないということです。

私は大学時代からその教えを実践していましたが、社会人になってからは、使える金額が比較的大きくなったこともあり、興味のある場所のあちこちへ、「一人修学旅行」と称して旅をしていました。訪れた場所は、戦艦大和関係なら呉や岩国、奈良、ミクロネシアなど、水戸藩関係なら水戸、松戸、東京、北海道、パリなど、源義経関係なら金沢から平泉、青森など、枚挙にいとまがありません。

歴史学を学ぶ際、現地へ足を運ぶのは、二重の意味でおすすめです。一つは、私が教えていただいた教授のおっしゃるとおり、実際の土地の様子を見ることで、史料の理解度がぐんと高まるため。もう一つは、現地に足を運ぶまでにできるだけ情報を吸収しようとするので、結果的に深く勉強できるためです。さらにおまけで、思ってもみなかった情報が手に入ることもありますし、現地を訪れることで、勉強へのモチベーションがぐんとあがることも期待できます。

私の場合、特にミクロネシアのチューク諸島を訪れたとき、大人になったなと感じました。チューク諸島は、昔はトラック諸島と呼称され、日本海軍の基地があった場所ですが、今の日本からはなかなか行くのが難しい場所です。いろいろなハードルを越えて島にたどり着き、戦艦大和が写った写真と同じ地形を見たときには、なんだかタイムトラベルをしたような、不思議な感慨を覚えました。

 

どんな入り口からでも、ウェルカムと思えるとき

これは私だけかもしれませんが、大学時代から数年間、歴女と呼ばれることが嫌でした。というのも、当時の歴女というのは、「歴史が好き」というよりは、「徳川慶喜が好き」「坂本龍馬が好き」というふうに、特定の歴史上の人物が好きな女性を指している面が強く感じられたんですね。それも、実在した徳川慶喜ではなく、どちらかといえば、ゲームやドラマなどで描かれる、イケメンの「徳川慶喜」です。別にそれがダメだということではないのですが、ゲームやドラマの「徳川慶喜」を、実在した徳川慶喜と同一視して、慶喜ゆかりの土地に、イケメンの「徳川慶喜」のイラストやグッズがあふれることに、私個人としては、ものすごい抵抗感がありました。

しかし最近では、抵抗感はまだありつつも、拒否感はそれほど覚えなくなりました。というのも、どんなかたちであれ、何かしら功績を残した人の名前や功績そのものを、輪郭だけでも知ってもらうことはいいことだと思いますし、そのために、くだけていたり誇張した表現が使われることは、興味を持ってもらうには必要なことだと思うからです。何より、史料や歴史的建造物を後世に残していくにはお金が必要で、それを稼ぎ出すためにも、まずできるだけ多くの人に興味を持ってもらわなければならないという現実があると感じています。

どんなかたちであれ、歴史に興味を持ってもらうと嬉しいと思えるようになったことが、大人になったなと感じるときです。

 

今回は、歴史学をやっていて、「大人になったなと感じるとき」を考えてみました。どんな学問でもそうですが、学ぶことには、終わりがありません。私が「大人になったな」と感じていることすら、先輩の方たちにはひよこのように思えるでしょう。歴史学の道も大人への道も、人生が終わるまで、一歩一歩、歩いていくものなのだろうなと思います。

 

夏川夕

 

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