夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

一度だけ読んだ『雪国』の感想

こんにちは。

夏川夕です。

 

師走はいろいろと用事が立て込み、ブログがなかなか書けません。少し久しぶりになりました。

さてこのたび、川端康成の『雪国』を初めて読み、読了しました。Twitterにも書きましたが、象徴物が多く、いろいろな読み方ができる作品だと思います。日本人作家の最初のノーベル賞受賞作ですから、もう研究も感想も言い尽くされた中、私があえて感想を書き出すのも恥ずかしいのですが、なんだか不思議な感慨を覚えたので、それを簡単に、率直に、書き留めておきたいと思います。見当違いのことを書いていても、どうぞお許しください。

 

『雪国』は、ストーリーとして全体が一綴りになっているのではなく、舞台のように、シーンとシーンの間に切れ目があるように思いました。それは、もともと連載形式で書かれた小説というのも大きいと思うのですが、シーンの一つ一つに意味が込められている割に、それが物語としてつながっていないように感じられるのです。なぜそう感じられるかというと、一つには、物語の登場人物たちが成長しないからではないかと思います。

『雪国』には、主に主人公の島村、島村が訪れる山村の芸者・駒子、駒子と何らかの因縁を持つ葉子の、三人の交差が描かれています。島村は東京の男で、妻子を東京において、雪国に住む駒子を数年間にわたって訪問します。駒子は、婚約者の男の病気治療代のために芸者になったという話ですが、そこのところははっきりしません。借金は確かにあるようで、年季奉公している様子がうかがえます。葉子は駒子の婚約者の男を深く愛しているようで、その男のために看護婦になりたいと願ったり、東京までわざわざ迎えに行ったり、細やかに世話をしています。

島村は、駒子の清潔さに惹かれる一方、葉子の声の美しさにも惹かれ、駒子とは関係を持ちますが、葉子は最後まで声だけを愛でる女です。二人の女は、顔の中で火の燃える女という幻に集約されます。その幻の女に会いに、雪国を訪れる島村を中心に、島村と瞬間的な関係を持ち続ける駒子と、他人の婚約者であり、後に死者となる男を盲目的に愛し続ける葉子が、それぞれかかわりを持つシーンが断片的に、微細に描写されるのです。

結論から言って、この三人の関係は、最初から最後まで、ほとんど変わりません。関係が変わらないので、心や精神の成長ということもありません。ただ、島村が訪れ、駒子が迎え、それを葉子が見守る、その連続です。

しかし、そうしたシーンの一つ一つに、島村と駒子の心の動きがよくあらわれていて、関係が変わらないことへの苛立ちや虚無感のようなものが、垣間見えます。それは、単純な悲しいとか嬉しいとかいう感情の動きではなく、言葉や仕草、もっと言うなら、相手への頼み事、怒りに任せた行動、窓辺に腰掛ける様子などから、心のひだに隠された本当の気持ちともいうべきものが、にじみ出てくるのです。その描写が、雪山や、星空や、里などといった自然の風景に重ね合わされてくると、「感情」という言葉だけでは表せない、人の持つ様々な心情が、静かに胸に沁み入り、美しく感じられるのです。

ですからこの小説を読み終えたとき、私は『雪国』は物語ではなく、壮大な詩であるとぼんやり思いました。日々の生活に惑わされない、「雪国」という特別な舞台で生まれた詩。そこは、虚無をよきものとして享受する世界です。

ただ、『雪国』は虚無で享受し続けることをよしとするわけではありません。その証左は、物語の一番最後、燃え盛る繭蔵の中にいる葉子を、駒子が助け出すシーンです。このシーンは、明らかに駒子と葉子が互いの合わせ鏡になるように描かれています。島村は何もしません。ただ、火事の上に流れ落ちる天の川に、落ちてゆくような心地を覚えているだけです。これは、三人の関係性が変わることの暗示だと私は受け取りました。三人で形作られた、安定した関係性から零れ落ちるのは、恋を自覚した駒子か、生を捨てた葉子か、それとも、追い続けてきた「顔の中に火の燃える女」の現実化を見た島村か。詩としての雪国はここで終わり、物語としての雪国が、ここから始まるのだと思います。そしてその行く先こそ、私たちが日々心を抑えて過ごしている、現実の生活の中にあるのではないでしょうか。

 

雪国

雪国

 

 

夏川夕

 

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