夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

12月8日に思う戦艦大和の軌跡

こんにちは。

夏川夕です。

 

すっかり寒くなりましたね。12月は、私に戦艦大和と太平洋戦争の、不思議な因果関係を思い起こさせます。それは、次のような日程であらわされます。

 

12/7 戦艦大和 周防灘で主砲テスト。

12/8 戦艦大和 呉への帰路で、真珠湾へ向かう南雲機動部隊と豊後水道にてすれ違う。

   同日、日本陸軍マレー半島を、同海軍が真珠湾を攻撃。太平洋戦争勃発。

12/16 戦艦大和 竣工。

 

これだけでは、因果関係と言うにはぼんやりしているかもしれません。それには、戦艦大和がどんな船だったかを知る必要があります。

戦艦大和は、大きな大砲を乗せるために作られた船です。どうして大きな大砲を乗せなければならないのかというと、大砲が大きければ大きいほど、弾の飛距離が伸びるからです。つまり、相手の船より大きな大砲を乗せれば、相手の弾が届かないような距離から、自分は相手に攻撃することができるわけです。これをアウトレンジ戦法と言います。

日本海軍は、このアウトレンジ戦法の確立を目指して、戦艦大和の開発を進めました。大砲が大きくなるのに比例して、それを撃ちだす船も大きくする必要がありますが、船が大きくなると、自然、戦艦としての回避力やスピードが失われていきます。そこのバランスをうまくとりながら、莫大な研究費と建造費をかけて、戦艦大和を作り出したのです。その結晶たる主砲のテストが行われたのが、12/7です。撮影のカメラが吹っ飛ぶほどの爆風と轟音だったといいますが、テストはうまくいき、その前に行われていた速力のテストも、予想を上回る上々の結果でした。

日本海軍が待ちに待った巨砲テストが成功した翌日、太平洋戦争が始まったのです。その日取りは、まるで大和のテスト結果を待っていたかのようでした。

ちなみに、12/8に豊後水道で大和がすれ違った艦隊の中には、戦艦長門の姿もありました。長門もまた、大和とは違うロマンに富んだ日本の船ですが、ここでは、詳しい説明は控えます。長門は日本国民にもよく知られた大変人気の船で、このとき、大日本帝国海軍の旗艦を務めていました。旗艦とは、大将旗を掲げる船、つまり作戦の指揮を執り行う船のことです。

大和は、太平洋戦争が始まってすぐの2月、長門から旗艦の役目を引き継ぎます。しかし、大和はそれ自体が秘密兵器の役割も帯びており、外国にはおろか、国民にも、その存在はあまり知られていませんでした。ですから、12/8、真珠湾へ向けて出撃する長門と、太平洋戦争の開始を控えながら母港に帰投する大和のすれ違いは、その戦争の結末を暗示するような出来事でもあるのです。

現実には、12/8時点で大和はまだ就役前の船であり、日本海軍ではなく呉工廠の所有物となっているので、戦争に参加はできません。戦争に参加するには、竣工、つまり、船のひととおりの設備が済み、日本海軍がそのことを認める必要がありました。大和が竣工したのは12/16なので、大和は太平洋戦争開始直後にできた船ということになるわけです。

そして大和は、その存在意義であるアウトレンジ戦法を実施できないまま、終戦前に沈むことになります。アウトレンジ戦法を使えなかった理由は、大きく2つあります。1つは、大和の秘密兵器という側面を重く用いすぎて、そもそも戦闘にあまり出撃できなかったこと、そしてもう1つは、飛行機の開発・改良が進み、戦艦同士で大砲を撃ち合うより、飛行機で戦艦や基地を攻撃する場面が多くなっていたことです。

実際大和も、米軍航空機の爆撃により、坊ノ岬で爆沈しています。太平洋戦争が終わる、わずか4か月前のことです。飛行機爆撃にも耐えるよう設計された大和は、幾度も魚雷や爆弾を受けながら、なかなか沈まなかったと言います。まさに、太平洋戦争時の日本を象徴するような船なのですね。

こうした悲劇の面が強調される大和ですが、牧歌的なエピソードにも富んでいます。ミクロネシアのチューク諸島というところをご存じですか? 昔はトラック島と呼称されたサンゴ礁の島は、日本における真珠湾とも呼ぶべき、海軍の基地でした。大和は、その短い生涯の1/3を、この美しい南の島で過ごしています。大和乗組員の手記などを読むと、そのときの生活は、戦時下でありながらも、島民とも仲が良く、楽しかったように回想されています。

私はこのチューク諸島を訪れたことがあります。島にはまだ日本海軍の遺物がたくさん残されていて、海でも、浜でも、ジャングルの中でも、あらゆる場面で当時が偲ばれました。サンゴ礁に囲まれた島は、素人目にもわかるほど天然の海軍基地で、しかしそのこともすぐに忘れてしまうほど、海の色の美しいところでした。戦艦大和は横顔の美しい船だったと言います。その船が、透明に青い海の中に浮かんでいる様子は、どんなにきれいだっただろうかと、静かな波を眺めながら、思いを馳せました。

こんなふうに書くと、戦争を美化していると思う人もいるでしょう。私は、決して戦争を美化するつもりはありません。しかし、「戦争は悲劇だ」「あの時代は狂っていた」と主張し続けることが、本当にその悲惨さを伝えることになるとも思いません。このことについては、また記事を変えて述べたいと思います。

話が少しそれましたが、12/7からの10日間は、79年前の日本にとって激動の10日間でしたし、戦艦大和という日本の科学の粋が、舞台袖から、舞台上に進み出ていく10日間でもありました。年の瀬の忙しくなる折ですが、この寒さと忙しさの中で大和が生まれ、日本が戦争に踏み出していったことを忘れずに、年を迎える準備をしたいと思います。

 

 

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呉の大和波止場。戦艦大和の甲板と同じ広さから、大和が生まれた港を臨むことができます。

 

夏川夕

 

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