夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

感謝すべきことは数あれど、此度は徳川慶喜様へ

こんにちは。

夏川夕です。

 

今週のお題】「感謝したいこと」、歴史学ではいっぱい思いつくので、何を書こうか悩みます。Twitterでもつぶやきましたが、歴史学的には、史料が残っているだけでありがたやありがたやと思うんですよね。特にテーマを決めて研究する場合、望んでいた情報が書いてある史料が見つかると、本当に嬉しいです。大学時代、卒業論文を書くにあたって、必要事項が書いてある適切な史料が見つからず、いろんな町の史料室にお世話になりました。やっとほしい情報が載っている史料を見つけたときには、「これで論文が書ける!」と安心したのを覚えています。

とはいえ、「歴史学の史料」というあまりに大きなテーマについて書いても面白くないかなと思うので、フォーカスをしぼって、徳川の幕府は日本を守るため、計画的に倒されたという説について、ご紹介したいと思います。これがなかったら、今の日本はイギリスやフランスの植民地になっていたかもしれません。

 

 

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子供の徳川慶喜と、父の斉昭。斉昭は教育熱心な父親でした。この水戸藩の気風が、今回の肝です。

 

徳川幕府が倒れた経緯

徳川の幕府が倒れて明治維新となった経緯については、一昔前までは、「外交に消極的な無能政府を、先見の明がある維新志士たちが倒した」というストーリーが主流でした。というのも、現在の日本政府が明治政府の流れを汲んでいるからですね。徳川幕府について悪く言わなければ、自分たちが政権をとった説明がつかないからです。前の政権について悪く言うのは、歴史の常ですね。

しかし最近になって、そのストーリーが見直されつつあります。徳川幕府も慎重ながら外交政策は積極的にしていて、西洋式軍隊の設立や、外洋航行用の船の建造にも着手しています。外国と交流するにあたり、幕府組織の抜本的改革ヴィジョンもありました。薩長の秘密同盟についても情報を得て、倒幕の可能性についても知っています。ではなぜ、幕府は倒されてしまったのでしょうか。それには、最後の将軍・徳川慶喜の思想が大きくかかわっています。

 

徳川慶喜ってどんな人?

徳川慶喜は、水戸藩の出身で、一橋家に養子に行った人です。この水戸藩出身というのが、日本の歴史にはとても深くかかわっています。

まず水戸藩というのは、よく知られているように徳川御三家の一つ・水戸徳川家が統治する藩です。尾張紀伊に比べて江戸に近いことから、有事の際、江戸の将軍が一番頼れる存在というのが水戸徳川家でした。その一方で、水戸藩は創立以来、「幕府より天皇」という考えが強い藩でした。これは戦国時代を駆け抜けた徳川家ならではの作戦で、万一「幕府 対 天皇」という図式になっても、徳川家の一部が天皇側について、家が残れるようにしていたのですね。そういう特殊な教育をする家でしたから、水戸徳川家からは将軍は出さない決まりでした。水戸徳川家は副将軍と呼ばれ、将軍に物理的に一番近い存在でありながら、それどまりの家だったのです。

そんな水戸徳川家出身の慶喜ですが、最終的には将軍の座に就いてしまいます。なぜそういうことになったのか、詳細は割愛しますが、根本には、慶喜が一橋家に養子に出て、水戸徳川家の者ではなくなったことがあります。本来、将軍になるべきでない、「幕府より天皇」の教育を受けた慶喜が、将軍に就いてしまった。このことがすべての始まりです。

 

慶喜将軍時の日本周辺

さて、慶喜が将軍になった1867年の日本は、真っ二つに分かれていました。というと、幕府 対 薩長と思い浮かびますが、その背後には、フランスとイギリスがいました。

1850年代前後というのは、欧米諸国がアジアに進出してきて、アジアの中で国盗り合戦を演じた時代です。例えば中国の一部やフィリピン、インドシナなどが植民地化されています。幕府はその情報を得ていたので、外交には非常に慎重だったのですね。どの国もできるだけ公平に取り扱い、不満から戦争にならないよう、バランスをとりながら外交しています。翻って欧米諸国から見ると、日本との交易はお金になるので、自国を一番に扱ってもらいたいわけです。そのため、あの手この手で幕府に取り入ろうとします。

その争いが最も激しかったのが、フランスとイギリスでした。この2つの国は互いのライバル意識の強さで有名ですね。開国直後の日本に最も近かったアメリカが南北戦争で離脱したため、フランスとイギリスは、日本と一番近い国の座を巡って争うのです。ここで重要なのは、フランスもイギリスも、「日本と一番近い国の座」が欲しいだけで、幕府と仲良くなりたいわけではないということです。

もちろん、フランスもイギリスも、最初は幕府と交流していました。ところが、日本の事情を深く知るにつれ、幕府は政権を預かっている組織に過ぎず、本当の王は天皇であることに気づき始めます。フランスはそれでも幕府と仲良くし続けますが、イギリスは幕府から離れ、薩摩を通じて朝廷に近づこうとします。このへんは、革命を起こして王政を倒し、帝政を敷いたフランスと、王室が君臨し続けているイギリスの違いかもしれませんが、単純に、日本に派遣されている大使の個人的意向が反映されているだけかもしれません。

フランスは、幕府をヨーロッパの社交界にデビューさせ、フランス式軍隊の装備や知識を与えています。一方イギリスは、薩摩と戦争をきっかけに急接近し、薩摩や長州に武器を売り始めます。つまり、幕府 対 薩長の図式が、いつのまにかフランス 対 イギリスに変わっているわけです。ある国の国土で別の国同士が争うことを代理戦争と言います。これは近代ではよくあることで、アメリカの独立戦争でも、同じくフランス&独立軍 対 イギリス軍という図式が起きています。

もし、日本で幕府と薩長が戦争になれば、フランスやイギリスにとっては、自分の国土や兵隊を失わず、武器が売れ、しかも肩入れしている方が勝てば利権も得られるかもしれないなど、いいことづくしになります。幕府は、イギリスが薩長に武器を売っていることを知っていたので、この代理戦争になることを危惧していました。

 

徳川慶喜に感謝すべき理由

徳川慶喜の行動には、賛否両論の学説が出ていますが、私には代理戦争をとにかく回避しようとしているように見えます。

まず慶喜は、将軍になってからわずか半年で、大政奉還という大きなイベントを起こしました。大政奉還とは、天皇に幕府が預かっている政権を返すことで、つまり幕府のよりどころを自ら失う行為です。しかし天皇は、新しい政治体制ができるまで、幕府に政治を続けるよう命じます。これは天皇慶喜の間に信頼関係ができているからこそ行えた業で、つまり、慶喜は、倒幕派に向けて、天皇自らが幕府に政権を預けていることを念押しし、精神的な公武合体を今一度見せつけているわけです。そのあと、幕府が朝廷と結びついて、新しい政治体制をつくる計画が存在した痕跡もあります。

ところが、大政奉還のさらに半年後の1868年正月、薩長を始めとする倒幕派が、まだ少年の天皇を囲い、明治政府の樹立を宣言します。慶喜が見せつけた精神的な公武合体から、強引に幕府を切り捨てたのですね。このとき、慶喜大坂城にいました。幕府軍大坂城に集結していて、戦争をしようと思えばできる構えです。ところが、慶喜はわずかな手勢だけ引き連れて、大坂城を出て、江戸へ帰ってしまいます。「敵前逃亡」とも言われる、傍目には情けない姿です。リーダーを失った幕府軍は、それでも天皇を取り戻そうと京都へ向かうのですが、新政府軍にぼろぼろに負けてしまい、目的は果たせませんでした。この負けにより、新政府軍が正で幕府軍が悪という流れができあがり、西日本の藩の多くは新政府軍側につき、幕府軍は江戸へ敗走、そののちも負け続け、新政府軍の日本統治、という運びになります。

ですから、慶喜幕府軍を率いて京都へ向かっていれば、幕府軍が勝って歴史は変わっていたかもしれない、だから慶喜は無能だ、という評価が、以前は多かったのです。

ではもし、本当に慶喜幕府軍を率いて京都へ向かっていたら、どうなっていたでしょうか。幕府軍は勝っていたかもしれませんし、負けていたかもしれません。しかしそれは実は小さなことで、問題は別にあります。

もし幕府軍が京都へ攻め上って新政府軍が押されたら、新政府軍は京都へ火を放ち、天皇を連れて京都の山あるいは長州に立てこもる計画だったと言います。そんなことになっていれば、今、私たちが楽しみ、日本観光の目玉にもなっている京都の名所古刹はなかったでしょう。さらに、将軍が新政府軍と争う構えであれば、日本中の武士たちが幕府軍側と新政府軍側に分かれ、戦国時代に逆戻りしていたに違いありません。戦国時代との大きな違いは、日本を狙う諸外国の存在です。

代理戦争を避けるためと言いましたが、代理戦争になればまだましな方です。代理戦争は、外国を儲けさせはしますが、まだ表向きは日本国内の争いです。しかし日本国内が相争い、双方が疲弊したところを狙って、外国が攻め込んできたらどうでしょうか。疲れ切った日本が、かなうはずがありません。あっという間に植民地化されてしまうでしょう。日本は島国ですから、九州と四国がイギリス領、本州がフランス領、北海道がロシア領のように、国土が分割されてしまった可能性も大いにあります。

徳川慶喜の「敵前逃亡」は、まず西日本を新政府軍側につけ、ついで東日本の幕府軍側の動きも抑制し、結果的に江戸の無血開城を成し遂げました。もちろん、それでも幕府のために多くの武士たちが戦い、たくさんの血が流れました。しかし幕府そのものが消滅したために、代理戦争を狙う諸外国のつけいる隙はなく、あくまで新政府の全国統治戦争というかたちで、争いは早期に収束できたのです。このため、日本は戦争による傷を最小限に抑えられ、そのおかげで明治の目覚ましい進歩があったのだと言えるでしょう。

 

いかがでしたか?

歴史の善悪は後世の人が判断すると言いますが、慶喜の行動は、本人の計算かどうかは置いておいて、結果的に日本を代理戦争から救ったと言える、評価すべきものだったと思います。慶喜が新政府軍に対してすぐに恭順の態度をとったために、そのあとの幕府と新政府の話し合いがスムーズに進み、日本は速やかに政権交代、おまけに徳川家の血筋は絶やされることなく現在にまで続いているという結果を見れば、理想的な政権の幕引きだったのではないでしょうか。

更に言うなら、慶喜がそもそも新政府にすぐに恭順の態度をとったのも、水戸藩創立以来の、「天皇を尊ぶ」教育のおかげです。二百数十年前から予想されていたかのように、徳川家と日本を守った水戸藩の教育、まるでできすぎた歴史小説のようなストーリーですね。本当に感謝すべき相手は、日本とその歴史を愛し、水戸藩挙げて日本の研究を奨励した、水戸学の創始者徳川光圀その人かもしれません。

 

夏川夕

 

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