夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

ピザで日本通史を語ってみた

こんにちは。

夏川夕です。

 

今週のお題】「ピザ」、初めは歴史学から書くには難しいテーマだなあと思っていたのですが、ピザに欠かせないチーズに焦点を当てたとき、これはこんなふうに日本の歴史をたどれるぞ、と気づきました。

 

 

古代日本のチーズと酪農衰退

日本にいつ乳牛が入ってきたのかは定かではないのですが、少なくとも仏教が入ってくる以前から、古代日本では、牛が飼育されていました。ちょっと前にネットで話題になった「蘇」は、牛乳から作るチーズのようなもので、天皇への献上物になっていたようです。蘇は作るのに手間もかかりますし、記録から見るに保存食品ではなさそうなので、身分の高い人しか食べられない食品でした。一般庶民の口に入らないということは、貴族社会が衰退するに従って蘇も食べられなくなってくるというわけで、武士の台頭に伴い、蘇は自然消滅的に消えていくことになります。

鎌倉時代から江戸時代にかけて、武士が統治する社会になるにつれて、牛はほぼ完全に労働力としての扱いになり、蘇はおろか、牛乳を飲むことも避けられるようになりました。これは政権が貴族から武士に移ったという理由だけではなく、四つ足の獣の摂取を忌避する仏教の考え方により、牛の乳を飲むこと自体がタブーになったからだと思われます。実際は、牛肉や牛乳はごくわずか食べられてはいましたが、食品としてではなく、薬としてです。「獣臭い」=「まずい」とも認識されていたようですね。このため、蘇は古代の食品として文献に残るのみになります。

 

酪農復活・その背景

幕末、欧米の肉食文化が入ってくると、牛は再び、労働力から食物として立場を変化させていきます。のちに日本食の代表となる牛鍋がその筆頭ですね。また、明治天皇が牛乳を飲むことを習慣にしていたことも、酪農・畜産振興の後押しになったようです。明治政府は、天皇の下に政府をつくった徳川幕府と異なり、天皇を中心に政府をつくっていたので、天皇を全面に押し出す必要があったこともあるのかなと思います。つまり牛乳を飲むことは、西洋文化に倣い、天皇を敬えという明治政府の方針にぴたりと一致していたわけです。

酪農・畜産は、幕末から明治にかけての日本社会にとって、新しい産業です。新産業に携わったのは、意外にも武士が多かったようです。なぜなら、そもそも明治政府というのは、薩摩や長州などの一部地域出身の武士と、朝廷にいた公家のみで構成された政府なので、そのほかの藩や幕府に仕えていた武士たちの行き場がなく、失職してしまっていたからです。もちろん警察や軍の幹部として新政府に仕えることもできましたが、主従関係を大切にしていた武士たちの間では、幕府の敵であった新政府に仕えるなら、刀を捨てて新しい商売を始めた方がいいと考える傾向が強かったのでしょうね。

ちゃんと調べたわけではないのですが、明治維新後は、北関東で畜産・酪農が盛んになったようです。外国人居留地である横浜が近いこともあるでしょうし、牧場に土地の性格が向いているのかもしれないとは思いますけれど、北関東の藩は幕府寄りだったこととも無関係ではないような気がします。実際、私が主に研究している水戸藩の武士の中にも、明治時代になってから、藩という組織を去って、牛を飼い始めた人が何人かいるのです。プライド高い 武士が牛の世話なんかするのかしら? とも思いますが、武士は馬を乗りものとして身近に置いていましたから、大きな動物の世話をすること自体は、そんなにハードルの高いことではなかったのかもしれませんね。

 

北海道の開拓

もう一つ、日本の酪農・畜産と日本史に大きくかかわっていると言えるのが、北海道開拓でしょう。もともと蝦夷と呼ばれていた日本の北の土地は、江戸時代、ロシア船が出入りしてアイヌ民族と交易していたこともあり、ロシアの南下を危惧した徳川幕府が、細々と開拓を進めていました。水戸藩の名君と呼ばれた徳川斉昭も、蝦夷の地理的重要性を認め、藩を挙げて蝦夷開拓の請負を名乗り出ていたほどです。

明治政府になってから廃藩置県が行われるまで、四年ほどの間があります。この期間は、まだ徳川時代の藩が機能していました。そのわずかな期間に、水戸藩を始め、いくつかの藩が、北海道開拓を請け負っています。とはいえ、藩も新時代に適応していくのに精いっぱいで、このときはあまり北海道開拓にまで手が回らなかったようです。しかし水戸藩は、斉昭の意志を継いで、藩主の徳川昭武自ら北海道を視察しています。

ところが廃藩置県が断行されると、北海道開拓使という組織を通じて、明治政府自らが開拓に乗り出していくようになります。(ちなみに、北海道開拓使の初代長官は、先週のお題「鍋」で引っ張ってきた佐賀藩の鍋島家が務めています。ここでもさりげなく要所を抑える鍋島藩です)

北海道の開拓は、簡単に言うとインフラなどの基礎整備は国がするので、開拓に挑戦したい人は移民として募集します、というやり方でした。それに早々と応じたのが、廃藩置県により失職した武士たちです。こうした人たちは、北海道を農地として開墾したり、鮭や昆布をとったりしていましたが、北海道が日本の土地として落ち着いてくるにつれ、広大な土地で酪農が行われるようになりました。

 

ピザへつながる2つの道

さて、ピザからだいぶ遠ざかっているようですが、ちゃんと道はつながっています。明治維新をきっかけとして、酪農が日本で復活しましたが、 牛乳はそのまま飲まれることがほとんどで、チーズとして食べられることはほとんどなかったようです。古代の蘇までは復活しなかったのですね。

ではどうやってピザが食べられるようになるのかというと、明治時代を過ぎて、外国文化が当たり前になる、昭和時代まで待たなければなりません。ところが、日本にピザが入った時期はどうやらはっきりしないようで、戦前説と戦後説があるようです。

私自身は、戦前説が濃厚なのではと思います。というのも、ピザの出生国、イタリアが、ドイツを仲立ちにして、日本と同盟を結んでいるからです。有名な日独伊三国同盟ですね。妹尾河童の『少年H』には、太平洋戦争直前の神戸に、ドイツ人もイタリア人も住んでいて、同盟を結んだため、この2ヵ国の人々を兄弟扱いしたことが書かれています。それならば、地域限定的になりそうとはいえ、イタリア人に焼かれたピザが、日本人に供された可能性は大いにあるのではないでしょうか。しかし、イタリアは太平洋戦争が始まったわずか2年後に同盟を破棄し、日本政府から敵性外国人の扱いを受けるので、ひょっとしたらピザを焼く暇もなかったかもしれません。

戦後説をとるなら、日本にピザを広めたのはアメリカ人ということになるでしょう。占領下の日本では、アメリカ軍に向けた店が次々にオープンしました。その中には、すでにアメリカ人の国民食としての地位を築いていたピザを食べさせる店があり、勝者としてのアメリカ文化を崇拝する雰囲気のあった日本の若者に、憧れのアメリカの食べ物として受けたというわけです。

 

いかがでしたか?

今週のお題が「ピザ」と見たときにはどうしようかと思いましたが、意外に雑な日本通史が書けてしまい、面白い体験ができました。なんでもやってみるものですね。

ところで、私は半年前の緊急事態宣言のとき、外食欲を抑えるため、実家を出て以来、初めてピザを焼いてみました。ホットケーキの素と一緒に強力粉も店頭から払底していた時期だったので、「薄力粉 ピザ」で検索したレシピです。薄力粉とオリーブオイルを混ぜてつくったクラストは、ぽろぽろしてちょっと食べにくかったのですが、味はとてもおいしくて、「わーピザだー」という感動を味わえました。このときも、なんでもやってみるものだなと思いました。

何をのせてもおいしいピザ。それは、なんでもやってみることの代名詞なのかもしれません。

 

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うまくキジが伸びなくってカタチは悪いですが、ちゃんとピザですよ。

 

夏川夕

 

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