夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

鍋島藩=佐賀藩の知られざる足跡

こんにちは。

夏川夕です。

 

今週のお題】「鍋」。鍋と言えば、日本史的には鍋島藩佐賀藩ですね。佐賀藩の藩主は、代々鍋島家という大きな家が世襲していたので、佐賀藩鍋島藩とも呼称されていたわけです。

 

 

鍋島藩佐賀藩とはどんな藩?

鍋島藩佐賀藩と聞いて、何を連想しますか? たぶん、歴史に詳しくない人なら「討幕派だっけ? でも何したんだっけ?」という感じ、少し詳しい人なら、「戊辰戦争には政府側で参加した」とか、佐賀藩出身の有名人として「大隈重信」「副島種臣」あたりが出てくるのではないでしょうか。

幕末が専門の私でも、佐賀藩は何したんだっけ?というレベルです。私が幕府寄りの研究をしているからということもありますが、佐賀藩は見かけるわりに目立たないというか、「薩摩! 長州! 佐賀。」みたいに、各種ついでのように名前が並んでいる印象です。あまり幕府やほかの藩と、攻撃的に争ったというイメージがないのですね。その反面、ほかの藩に先んじて反射炉(大砲を造る炉)をつくったり、するべき改革は行っている事実があります。全体的に、淡々とマイペースに足場を固め、じっと情勢を観察してる雰囲気です。

 

佐賀藩、パリへ行く

 そんな佐賀藩の個人的ハイライトは、戊辰戦争の1年前、1867年のパリ万国博覧会への参加です。この万国博覧会は、幕府が国際社会へデビューする最初のステップとして、参加を決めたものでした。1867年と言えば、幕府と長州が二度も戦争した後に就任した15代将軍慶喜が、西日本の情勢を心配して、大坂や京を離れられなかったころです。幕府としては、万国博覧会で「日本の王 将軍慶喜」を広告し、外から足場を固める狙いがあったのですね。そのために、慶喜の異母弟・徳川昭武が、将軍名代として、パリに派遣されます。

幕府は、昭武を派遣するだけではなく、各藩にも、万国博覧会に参加するよう促しました。幕府の財政が思わしくなかったので、藩の力も総動員して、日本を国際社会にアピールする狙いがあったと推測されます。日本の漆器や磁器を国際社会に紹介することで、輸出増加を期待したのですね。幕府の呼びかけに応じたのは、薩摩と佐賀のふた藩でした。薩摩も佐賀も、幕府と行動を一緒にする必要はなく、幕府に出国を届け出さえすれば、後はわりと自由に動くことが認められていました。

薩摩はこの時点ですでに長州とつながっていて、万国博覧会で反幕府キャンペーンを行います。この一連の事件には、ベルギー人の山師やフランス人の聖職者も絡み、まるで『モンテ・クリスト伯』のような面白さがあります。昭武に随行してパリに渡った渋沢栄一も関係してるので、詳細は来年の大河ドラマに期待しますが(たぶんロケが難しいので省略されるでしょう。いつか小説化しようと思っている事件です)、幕府と薩摩が揉める一方で、佐賀藩は比較的穏やかに洋行して、穏やかに帰国しています。ただそんな佐賀藩にも、ひとつ、大きな事件がありました。

 

佐賀商人・野中元右衛門

佐賀藩から万国博覧会に参加した一行には、武士だけでなく、商人も含まれていました。野中元右衛門という人です。この人は佐賀の商人で、博覧会に出す品物の買い付け・販売を担当しました。万国博覧会というのは、品物を展示するだけでなく、販売市場も兼ねていたので、ちゃんと利益を出すために、商人が参加したというわけです。

日本からフランスまでは、香港、シンガポールなどを通り、スエズに上陸、そこから陸路でエジプトを北進し、再び船に乗ってマルセーユに上陸、そして鉄道に乗ってパリ、というふうに、二か月もかかる旅をしなければなりませんでした。外国人に囲まれて、言葉も通じず、習慣もわからず、経験したことのない船酔いや暑さにやられて、さぞストレスのかかる旅路だったことと思います。そのせいか、野中元右衛門は、パリに到着して間もなく体調を悪くし、一晩苦しんだのちに亡くなってしまいました。

遠いパリから、日本まで遺体を運ぶことはできません。佐賀藩の一行は、野中元右衛門をパリに埋葬することに決め、フランス人の協力を得て、ペール・ラシェーズという墓地にお墓を建てました。ペール・ラシェーズはとても大きな歴史ある墓地で、ドラクロワショパンなど名だたる人々が埋葬されている場所です。『レ・ミゼラブル』の主人公、ジャン・ヴァルジャンのお墓も、ここにあるとされています。

野中元右衛門のお葬式は、佐賀藩の一行と少数のフランス人だけで、静かに行われたそうです。そのお墓は、徳川幕府が瓦解し、明治になってからもペール・ラシェーズに建っていましたが、1871年パリ・コミューンの際に壊されてしまい、1873年、ウィーン万国博覧会に参加した商人の松尾儀助という人が、元の場所に再建しました。

 

野中元右衛門を訪ねて

私は5年ほど前のちょうど今頃、この再建された野中元右衛門のお墓を、パリまで訪ねたことがあります。ペール・ラシェーズ近くの花屋で菊の花束を買い、墓地に入ったのですが、あまりの広さに迷子になってしまいました。墓地の中は区割りされていて、野中さんのお墓が五区というのはわかっていたのですが、細かい案内図がないので、区の中のどこにあるのか、全く見当がつかなかったのです。よく晴れた日で、ときどきベンチに座って休みながら、ひとつひとつ、お墓を訪ねてまわりました。ようやく見つけたのは、探し始めてから1時間も経ったころです。ちょっと勇気を出して、お墓の立ち並ぶ中に踏み込んでいかないと、絶対に見つからない場所でした。

野中元右衛門のお墓は、たくさんのフランス人のお墓に囲まれて、一つだけ、日本語の墓碑銘を刻まれて建っていました。日本酒のびんがお供えしてあり、今でも誰か日本人がお世話をしているのだなと思いました。私も菊の花を置いて、お参りしました。

 

その後の佐賀藩

野中元右衛門を失った佐賀藩一行は、万国博覧会でうまく利益を出すことはできなかったようです。幕府と薩摩の応酬が人目に付き、佐賀藩は目立たなかったのかもしれません。しかし、佐賀藩一行は帰国前にオランダで軍艦・日進丸を購入し、この船は戊辰戦争の後、明治政府に大いに用いられました。ここでも佐賀藩は、目立たないながらも、後世にしっかりと結果を残しているというわけです。

 

 

いかがでしたか?

今回は鍋=鍋島藩とこじつけましたが、鍋をつつくような寒い日には、同じ寒気を迎えたパリの町に、150年前から眠っている日本人がいることを、私はふと、思い出します。そして、そのお墓をまだ守ってくれている日本人がいることも。

私が長年勉強しているパリ万国博覧会徳川昭武については、またの機会に。

 

夏川夕

 

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