夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

『さようなら、オレンジ』は、表紙どおりの作品です。

こんにちは。

夏川夕です。

  

岩城けいさようなら、オレンジ』を読了しました。

同じ作者の『Masato』を読んだときより、主人公の年齢が近かったからか、よりリアルに、まるでドキュメンタリーを読んだような読後感でした。物語のクライマックスではなく、何気ないシーンでぽろぽろと涙がこぼれるのは『Masato』と一緒です。

読書メーターでほかの人の感想を少し見ましたが、やはり『Masato』と同様、人によって読み方が全く異なる作品という印象を受けました。作品がよかった悪かったというより、何に焦点を当てて読んだのか、人によって全く違うようなのです。それは、異国で暮らすことや言葉の問題について、人それぞれ、異なる問題意識を持っているからではないでしょうか。

この記事では、私が『さようなら、オレンジ』から受け取ったメッセージについて書きたいと思います。

 

以下、ネタバレにご注意ください。

 

さようなら、オレンジ (ちくま文庫)

さようなら、オレンジ (ちくま文庫)

  • 作者:岩城 けい
  • 発売日: 2015/09/09
  • メディア: 文庫
 

 

◆あらすじ◆

アフリカで生まれたサリマは、戦火を逃れた難民として、夫に連れられ、2人の息子を抱えてオーストラリアにやってくる。夫は数か月で行方不明になり、サリマは生きるため、夫が働いていたスーパーの精肉部で働き始める。英語がつたない彼女は、肉や魚をきれいに加工することに喜びを覚えるものの、孤独は紛れない。

サリマの物語の間に、Sと署名する女性の手紙が差しこまれる。彼女は幼い娘を育てながら、第二言語である英語で創作を試みている。しかし、第二言語で本当に表現をすることは難しく、創作は進んでいない。

サリマは英語を学ぶため、働きながら語学学校に通い始める。クラスメイトに、Sらしき日本人女性がおり、大学に行けるチャンスがありながら、赤ん坊を抱えて語学学校にやってくる彼女に、サリマは言いようのない「違う」という思いを抱く。

抽象的に「違う」という思いを抱くサリマと、論理的に苦しみを語るSが重なり、異国で生きていくことを肯定も否定もせず、淡々と物語る作品。 

 

この物語は、どちらかと言えば最初から最後まで平坦に書かれています。感情を煽るような文章はほとんどありません。登場人物たちに生活感はあまりなく、主人公サリマとSの人生を覆すような事件も、淡々と語られます。そこに感動を見出したい人には、物足りない文章かもしれません。

しかし現実では、人生を揺すぶるような事件が起きても、感傷に浸る余裕はほとんどありません。事件を受け止め、必要な連絡を行い、些事に対処する一方で、日々の生活を送らなければならず、感情はその合間に挟み込まれるだけです。ですから、淡々とした書き方はかえって、その感情に浸りきれない、言外の悲しみをくっきりと伝えているように思います。

 

また、この物語では、事件が起こした感情より、事件がもたらしたものについて、焦点を当てています。例えばサリマやSの身に、何か事件が起こります。するとそれにより、サリマやSの生活や考え方のみならず、彼女たちの関係、彼女たちを取り囲む人々の関係が、少しずつ変化していくのです。「異国」というのは、頭では同じ世界とわかっていても、気持ちの上では別世界のようなものです。それなのに、異国の地で、互いに異国人同士でありながら、人間として、彼らはそれぞれに影響されているのです。

たくさんのメッセージを含んだ作品ですが、著者がこの物語で書きたかったことの一つは、そういうことなのではないかと私は思います。異国の地であっても、生活の場とすればそこは故郷であり、一緒に苦しみを分かち合えば友人となります。この場合の故郷や友人とは、一生付き合っていくものではなく、一過性のものでもありえます。ときにはこの場所のこんなところ、この人のこういうところが嫌だと思うこともあるかもしれません。しかし、苦しんでいる人がいれば、その人の国籍や言葉や人種がなんであろうと、手を取り、慰めることができる。それはその瞬間、友情となり、その記憶は永遠によきものとして残る。そういうことではないかと思うのです。

個人的なことですが、私はどちらかと言えば、外国人に対して壁を作るタイプです。外国人の親戚も友人も仕事仲間もいますが、言葉が邪魔をして、芯からわかり合えないな、と思うことが多々あります。しかし、そこに感情が介在すると、不思議なほど、寄り添う気持ちが生まれるのです。そういうとき、言葉や国籍は一切関係ありません。

この物語は、そうした気持ちを、見事に表現した作品だと思います。

 

見事といえば、物語に施された仕掛けも、見事でした。物語を通して理解したつもりになっていた主人公が、最後の最後にわからなくなるのは、新鮮な体験です。しかしこの仕掛けにより、主人公の難民女性は、肉体と人生と希望を持った女性として、ずっとリアルになります。肉を切る手つきや、黒いちぢれ髪や、ほほ笑んだ口元だけがグラフィティのようなイメージとなり、彼女の顔は見えなくなってしまいます。しかし、異国に住む難民女性、あるいは物語の中の主人公という抽象概念は取り去られ、オーストラリアの田舎町で暮らす、母であり、英語学校の生徒であり、精肉場のチーフである、一人の女性の姿が浮かび上がってきます。だからこそ、異国人同士における寄り添う気持ちが、よりいとおしいものに感じられるようになるのだと思うのです。(ただ、この仕掛けについては書評等読むと、賛否両論のようです。否定論にもなるほどと思う部分はあり、表現するって難しいなあと思いました。)

 

最後に、タイトルにも、物語中のキーワードにもなっている「オレンジ」について。これは果物ではなくカラーのオレンジで、太陽を指しています。英語のタイトルでは、『Good bye, my Orange』と、「my」がついています。つまりこれは、「私の太陽」を喪失する物語なのです。サリマやS、彼女たちを取り囲む人々、『さようなら、オレンジ』の登場人物は、みんな、何かを喪失します。しかし必ず、誰かに寄り添われる瞬間があります。「誰か」との関係性や感情は関係なく、それは言葉と国籍を超えた、気持ちです。太陽を喪失しても、次の太陽を見つけることができる。それを信じているからこそ自ら告げられる、「さようなら、私のオレンジ」。

 

本を閉じれば、読了後のイメージと表紙がぴったりしていることに、驚くのではないでしょうか。顔のわからない縮れ毛の女性が、オレンジ色の中に、すっくりと後ろ姿を見せている。彼女は一人です。物語を読む前は、タイトルの「さようなら」と相まって、彼女はとても寂しそうに見えました。しかし物語を知った後、彼女は一人に見えても、誰かが寄り添っていること、そしてまた、彼女自身も誰かに寄り添っていることを、確信的にイメージできるはずです。