夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

薩摩とかけて水戸ととく。そのこころは

こんにちは。

夏川夕です。

 

今週のお題】「いも」といえば、どうしても私はサツマイモとなってしまいます。歴史好きとしては、日本土着のサトイモが出てくるべきですが、サツマイモの薩摩に引っ張られてしまうんですね。

サツマイモは、名前のとおり、薩摩藩で広く栽培された植物です。気候不順でも育つサツマイモは、救荒食物といって、飢饉の際のセーフティーネットとして、江戸時代中期に全国へ広がります。太平洋戦時下でも、サツマイモはジャガイモと並んでよく栽培されています。

現在、日本で一番サツマイモをつくっているのは薩摩の流れをくむ鹿児島県だそうで、次点で茨城県となっています。茨城県といえば、おおもとになったのは水戸藩です。討幕をリードした薩長同盟の片割れである薩摩と、徳川御三家の一つである水戸が、サツマイモ栽培で首位争いをしているのはちょっと面白いですね。でも実際、薩摩と水戸に親交があったことは、あまり知られていないと思います。

 

薩摩藩水戸藩は、成り立ちからして真逆を向いています。天下分け目の合戦、関ケ原の戦いでは、薩摩の島津氏は豊臣側の西軍についていて、合戦後は外様大名として徳川配下に収まりました。水戸には合戦後に徳川家康の息子が領主になり、江戸にほど近く、すぐに将軍を助けに行きやすいことから、副将軍などと称される水戸徳川家となりました。

ここまで、薩摩と水戸はむしろ敵同士の間柄ですが、江戸末期のころ、急接近します。外国船が日本近海にあらわれるようになって、日本の国中が一致団結する必要が生じたためです。このとき、薩摩の島津斉彬と水戸の徳川斉昭が幕府の政治に大きな影響を与えるようになります。どちらも、しっかりした思想と強いリーダーシップを持ち、名君と言われた人物です。薩摩と水戸では距離があるように思いますが、藩はそれぞれ江戸に屋敷を持っていて、薩摩藩の人々も一部江戸で生活をしていたので、交流はできたわけですね。

ここでポイントになってくるのは、水戸藩の考え方です。水戸藩は、幕府より尊王、つまり、天皇の方が大事という方針でした。御三家にしてはちょっと意外なこの考え方は、幕府が天皇に敵対するようなことがあっても、水戸藩だけは天皇側につき、徳川の血を残すためだったともいわれています。何にしても、この水戸学の基礎になっている尊王が、やがて外国を排除する攘夷と結びついて、尊王攘夷論が生まれました。尊王攘夷論は薩摩をはじめとする各藩の志高い武士たちに伝播していきます。この尊王という言葉が大きくなり、遂には天皇が直接政治をすればいいのであって、究極的には幕府はいらないんじゃないかという結論に結びついていくわけです。

幕府としては、そうした尊王論は放っておくわけにはいかず、天皇と直接結びつこうとする人々を粛清していきます。これが安政の大獄です。粛清された人々の中には、水戸藩の人も薩摩藩の人もいました。

幕府とは、天皇から位を授かっている征夷大将軍が立てているものです。天皇の恩恵を受けている身でありながら、天皇と直接結びつこうとする人々を粛清するとは何事か、やりすぎだ、ということで、安政の大獄の主導者である井伊直弼に怒りの矛先が向きました。大老暗殺で名高い桜田門外の変です。

桜田門外の変は、薩摩藩出身者1名、水戸藩出身者17名で行われました。いずれも藩を脱け、浪士となっていて、尊王論と藩の親交で結びついていたメンバーです。彼らが井伊大老を殺害したことにより、幕府の威信は失墜、討幕の機運が、少しずつ高まっていくことになります。

このあと、同じ尊王論を掲げながら、薩摩藩は討幕運動へ、水戸藩は内部分裂へと道を分けていきます。明治政府の立役者に、水戸藩の名前はありません。

 

今、水戸駅の土産売り場へ行くと、サツマイモ商品が目に付きます。サツマイモが水戸で広く栽培されるようになったことと、藩同士の交流には、おそらく関係はありません。しかし、水戸の地で薩摩の名前を見ることには、何か因縁めいたものを感じずにはいられません。

サツマイモを料理するとき、私はいつも、薩摩藩を思い出し、水戸藩を連想するのです。