夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。出版賞に挑戦中。

【この記事が常にトップです】夏川夕の読書記録:2021年1月1日~更新中

こちらは、2021年に夏川夕が読んだ本をリストアップしています。

小説に限らず、研究書や漫画も載せています。

随時更新中です。

  

最終更新日:2021年6月22日

 

#名刺がわりの「本」10選はこちら。

 

 

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時代背景を知ると面白い! E.R.バロウズ『The Moon Men』の感想&解説

こんにちは。

夏川夕です。

 

エドガー・ライス・バロウズの<月シリーズ>第2巻、『The Moon Men』を読み終えました。話に聞いていたとおり、エンタメ一辺倒のイメージが強いバロウズの作品としてはかなり異色で、読者を楽しませるより、バロウズの主義主張の方に重きを置かれている作品です。第1巻の『The Moon Maid』は、バロウズパターンの裏返しのような物語でしたが、第2巻の『The Moon Men』は、バロウズパターンの<お約束>がほぼ見られない作品になっています。その理由を、物語が書かれた時代背景から考えてみました。

第1巻の感想&解説記事はこちらです。 ↓

natsukawayu88.hatenablog.com

この記事でも、ネタバレをどんどんしていくので、未読の方はご注意くださいね。 

 

 

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 <月シリーズ>第2巻の物語

『The Moon Men』は、史実を知っていると、ちょっとドキッとする始まり方をします。最初に知っておいていただきたいのは、この物語が連載されたのは1925年だということです。

大戦争」と呼ばれる戦争が1967年に終わり、世界の覇権はアメリカとイギリスの手に握られます。戦争の反動で平和を求める世界は、大幅な軍備縮小を進めていきます。各国が軍を持つ代わりに、国際平和艦隊と呼ばれるものが組織されますが、軍隊の訓練をしたり武器を持ったりすることは、忌むべきこととみなされる価値観が育ってゆきます。軍備縮小を進めるあまり、個人が15センチ以上のナイフを持つことさえ違法とされる時代になっていくのですね。

そんな中、『The Moon Maid』の主人公・ジュリアンが、月の王国の生き残りであるナー・イー・ラーを伴って地球に帰還します。そしてそれから数十年後の2050年、月の皇帝を自ら名乗ったオーティス/月世界の名前でオー・ティスが、突如大軍を率いて、月から地球にやって来ます。軍備をほとんど持たない地球は、たちまちオー・ティスに征服されてしまいます。

ジュリアンは国際平和艦隊を率い、オー・ティスを相打ちで倒しますが、月からは毎年700万もの享楽的な月世界人=カルカール人が送り込まれるようになり、世界はカルカール人に支配されてゆきます。その世界には、ジュリアンの子供とオー・ティスの子供もいました。『The Moon Men』は、その子孫たちの物語です。

2120年、『The Moon Maid』のジュリアンの玄孫にあたるジュリアン9世は、アメリカのシカゴにいました。カルカール人はアメリカ社会を完全に支配し、アメリカ人からあらゆるものを搾取します。作物や家畜は税という名目で取り立てられ、美しい女性もカルカール人に連れていかれてしまいます。アメリカ人たちは教育や宗教も禁じられ、抵抗の意志そのものが摘み取られてゆきます。自堕落なカルカール人は、ものを補修したり改善したりという考えがないので、アメリカ人さえその仕組みがわからなくなった電車や車は次々に使えなくなり、各町との通行はほとんど途絶え、ビルは崩れて、アメリカはフロンティア時代に逆戻りした文明レベルになっています。

こんな荒廃した社会で生まれ育ったジュリアン9世が、刷り込まれたカルカール人に対しての恐れを克服し、「アメリカ人」であり「一人の人間」であるという自覚を取り戻していくのが、この『The Moon Men』のメインテーマです。その拠り所になるのは、父親であるジュリアン8世が隠し持つ星条旗星条旗を持つこと自体が重罪になる世界で、ジュリアン家はアメリカへの忠誠と共に、星条旗を子孫へ伝えてきたのです。

世界に対して委縮しきっていたジュリアン9世は、星条旗の存在、宗教の分かち合い、両親や隣人の苦しみをもって、一人の「アメリカ人」として目覚め、カルカール人に抵抗する勇気を獲得します。その過程でジュリアンは美しい妻を得ますが、支配者オー・ティスもまた彼女を望みます。オー・ティスはジュリアンの妻を得るため、またアメリカ人としての自覚を潰すため、ジュリアンや彼の家族を苦しめます。ジュリアンは妻と両親を苦しみから解き放つため、星条旗の元に革命を起こします。

 

『The Moon Men』に見られる、「バロウズじゃない」感

さてこの<月シリーズ>ですが、第1巻の『The Moon Maid』はセルフパロディというか、いつものバロウズパターンを裏返しにしているような構成でした。しかしそのためにかえって、バロウズ節が失われていない物語でもあったのです。ところが第2巻の『The Moon Men』は、<火星シリーズ><ペルシダーシリーズ>で慣れた身からすると、話の運びがどうも「らしくない」感じがして、面白いのですが少なからず戸惑いも感じました。

そのポイントは、大きく言って次の2つです。

①主人公の素性が明らかにされている

②主要人物が死ぬ 

順番に説明していきます。

まず①についてですが、少なくとも<火星シリーズ><ペルシダーシリーズ>では、主人公の素性ははっきりしません。アメリカ人であることは間違いないのですが、両親や兄弟姉妹についての話が一切出てこないのです。<火星シリーズ>のジョン・カーターに至っては、「子供の頃の記憶がない」とまで言い切っています。それが、彼らのヒーローとしての存在感をいや増しているのですね。素性が不明であるというのは、神話にもよく使われている手法で、その人物の神聖さを高める効果があります。

ところが『The Moon Men』の主人公ジュリアン9世は、両親と一緒に暮らし、<子供のころから知っている>人物や風景が頻出します。神格化されていないのです。むしろヤギを飼い、市場に出かけるなど、俗っぽい描写が目立ちます。彼がヒーローらしい働きを初めてするのは、物語の中盤に差し掛かったころで、それまではあえて<普通の青年>として描写しようとする意志さえ感じます。

②もまた、「バロウズらしくない」物語のつくり方です。<火星シリーズ>や<ペルシダーシリーズ>では、どんなにピンチな展開があっても、主要人物が死ぬことは絶対にありません。勧善懲悪の物語とわかっているので、ある意味安心して読めます。

ところが『The Moon Men』では、ジュリアンの友人だろうが両親だろうがどんどん死にます。物語の構成上、それほど必然性がなくても死にます。主要人物が死ぬことによって、アメリカ人がいかにカルカール人に追い詰められた状態なのかわかりますし、悲劇性も高まっていくので、一応物語の構成としてわからなくはありません。しかしバロウズがこういうふうに物語を構成するとは思っていなかったので、これにはかなり驚きました。

もともと、<月シリーズ>3部作は、この『The Moon Men』が最初にあったと言います。でもこの悲劇的な物語では、バロウズのエンタメ性を求めている読者には売れないと出版社が判断し、発表は許されなかったそうです。そこでバロウズは、<この物語を出版するために>、第1巻の『The Moon Maid』を書いたということらしいのです。そういう事情を知ると、『The Moon Maid』がバロウズパターンの裏返しという楽しみ方をできる一方、『The Moon Men』が「らしくない」と感じるのも理解できますね。

 ではなぜ、バロウズは物語を付け足してまで、この『The Moon Men』を出版したかったのでしょうか。その答えは、この物語が書かれた時代背景にあります。

 

『The Moon Men』が書かれた時代背景

 Wikipediaによると、<月シリーズ>第1巻の『The Moon Maid』が連載されたのは、1923年となっています。第1巻は第2巻『The Moon Men』の付け足しですから、バロウズが<月シリーズ>を構想したのは1923年より以前だと考えられます。

では、1923年以前の世界は、どんな世相だったのでしょうか。

まずマークすべきは、1922年の暮れに、共産主義国家の象徴となるソヴィエト連邦が誕生していることです。月世界から地球を侵略しにやって来るカルカール人は、明らかに共産主義を意識して書かれています。赤い旗、労働が報われない社会、土地は国家のものとする制度など、カルカール人がアメリカに打ち立てる社会は、共産主義国家に似た社会です。さらに、地球がカルカール人に征服されるターニングポイントとなったジュリアン5世とオー・ティスの決戦は、「2050年が終わるとき」、つまり年末に起こったと明記されています。アメリカが共産主義に屈服するのを、バロウズはこのようにデフォルメして書いているのです。

1922年には、もう一つ特筆すべきイベントが起きています。ワシントンで行われた軍縮会議です。軍縮というのは、文字通り軍備を縮小することで、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本の間で条約を結ぶという形で行われました。この5か国の共通点は、第一次世界大戦戦勝国であるということと、強い海軍を持っている国ということです。

1914年から1918年の間に起きた第一次世界大戦は、世界が初めて体験したかたちの戦争でした。それまで戦争と言えば、ある地域に限定して行われるもので、決戦で勝敗を決めたり、双方が消耗したところで話し合いで解決したりするものだったのですね。ところが科学の発展により、船や車の稼働距離が伸びたり、缶詰が発明され、遠い戦線まで物資を届けることが可能になったりしたために、戦線がどんどん拡大し、遠い国までが条約や同盟によって参加を始めたりで、壮大な規模の戦争になってしまったのです。

第一次世界大戦終結した後も、同じような世界戦争が再び起きるのではないかと考えられていました(そしてそれは、第二次世界大戦というかたちで実現してしまいます)。そこで、戦争が終わってもまだ力が残っている国、つまり第一次世界大戦戦勝国が、次の戦争に備えて、船をつくり始めたのです。当時はまだ飛行機はそれほど距離が飛べず、武器としては実用的でない時代だったので、戦争に投入する機械といえば船でした。そうして船づくり競争が激化していくのですが、船というのは造るのにも費用がかかりますし、また維持費がすごいんですね。船に乗せる船員を育て、動かすための燃料を常に備蓄し、人と船の訓練もしなければなりません。それが次第にどの国の予算も圧迫し始めてしまったので、軍縮会議が行われるに至ったわけです。

バロウズは、どうもこの軍縮が不満だったようです。平和を求めてゆきすぎた軍縮をしたがゆえに、地球は簡単にカルカール人に征服されてしまった、という話の運びにしています。また同時に、<国際平和艦隊>が征服を防ぎきれなかったということで、執筆当時に設立されていた、国際連盟も批判しています。国際連盟とは、第一次世界大戦の後、平和を推奨し、戦争を防止する組織として設立されたものです。アメリカはもともとこの組織には批判的で参加していませんでしたから、バロウズも国家に同調して批判したのかなとも思えます。

 

つまり『The Moon Men』というのは、共産主義国家が生まれる中、軍縮して自ら弱体化していくアメリカと世界に向けてバロウズが書いた、警鐘小説だったと読み取れます。史実としては、物語が書かれて二十年も経たないうちに第二次世界大戦が起きてしまい、軍縮は破棄されます。ソヴィエトはその後崩壊しましたが、共産主義国家・社会主義国家は、今でも資本主義国家と共に世界に存在していますね。執筆当時のソヴィエトの位置にいるのは、中国でしょう。100年も前に書かれたこの小説は、今の世相をさえ反映しているとも言えるのかもしれません。

物語の中では、アメリカ人のジュリアンは共産主義者のカルカール人に対して革命を起こしますが、<のろしを上げた>程度にとどまり、ジュリアン本人は敗北します。そして最終巻の『The Red Hawk』に続くのです。<バロウズパターン>を逸脱した物語が進む先には、なんと日本人もあらわれます。読み終え次第、第3巻の物語もご紹介するのでお楽しみに。

 

 

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国立歴史民俗博物館に見る、理想の博物館

こんにちは。

夏川夕です。

 

先日、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に行ってきました。以前、何かでジオラマがすごいと聞いたので、ジオラマ好きな私は一度見に行ってみたかったのです。ところがこの博物館、ジオラマもすごかったのですが、とても隅々まで気が配られていて、まるで博物館としての一つの完成形を見たようで、感動してしまいました。

私は大学時代、博物館学を少し齧りましたし、いくつかの博物館や美術館でバイトしたりもしました。また今まで、国内外の大小様々な博物館を訪れてきました。本来、博物館というのは貴重な資料や研究内容を人類のために保存・公開する場であり、人それぞれの好みはあっても、素人に優劣をつけられるものではないと思います。しかし、在り方としての博物館という意味で、こんなに見事だなあと思った場所は他にありません。

この記事では、国立歴史民俗博物館のどこにどうして感動したのか、いくつかのポイントに絞ってシェアしたいと思います。

 

 

 

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博物館は、佐倉城址の中にあります。昔は陸軍が駐屯していたようですね。

 

はじめに:国立歴史民俗博物館は、こんな施設

この施設は、大きく6つの展示室に分かれています。それぞれ古代・中世・近世・民俗・近代・現代がテーマになっていて、展示室内で、更に細かいテーマごとに部屋が分かれています。1つの展示室が小さな博物館くらいあって、すべてをじっくり見て周ると、1日では見切れないかもしれません。6つの展示室はそれぞれ独立しているので、好きな時代から見ることができますが、古代から順番に見て周ると、日本通史を視覚的に学べるという仕組みになっています。

 

ポイント①:レプリカの多用

ちょっと意外な点から入りますが、この博物館は、レプリカがとても多かったです。「あ、この資料ここにあったんだ~」と思ってラベルを見ると、だいたいレプリカでした。ちゃんと数えたわけではないのですが、感覚的には2つに1つはレプリカだったような気がします。そのくらい多かったんですね。

本来、レプリカの使用目的というのは2種類に分けられると思います。1つは、資料は博物館に保管してあるのだけれど、脆すぎて公開に堪えないので、仕方なくレプリカを作成するというもの。例えば、木簡や布製の衣装ですね。木や布は、ちょっと強い光で色を失ってしまったり、温度や空気の流れで、カビに侵されたり虫に食われたりします。すると公開する利点より、適切な場所に保管して、資料保全に努める利点の方が大きいと考えられますね。そうなると、本物は保管しておいて、公開にはレプリカを使うことになるわけです。

レプリカを使用する目的の2つめは、その博物館にはない資料なのだけれど、他の展示資料をわかりやすくするために、補足として用意する場合です。例えば、中世の日本と中国の仏像の類似性を示したい場合には、日本の仏像だけを展示してその類似性を文字で説明するより、中国の仏像を一緒に並べておいた方がわかりやすいですね。しかし、日本の仏像との類似点をわかりやすくするためだけに、わざわざ日本の中世時代の中国の仏像を手に入れるのは、実際的ではありません。するとレプリカを使用するのが、購入・保全という意味での金銭的にも、文化財の適材適所という意味でも、効率的になるわけです。

ところが国立歴史民俗博物館は、このどちらの目的にも当てはまらないレプリカの使い方をしています。つまりこの施設のレプリカは、それ一つだけで博物館がつくれるような、いわゆるメイン級の、教科書にも掲載されているような資料が多かったのです。有名なところだと、群馬県出土のハート形土偶とか、稲荷山古墳出土鉄剣ですね。「えーこれここにあったのー」と思って見ると、複製とかレプリカとか書いてある。あまりにそれが続くので、博物館の意図がわからないうちは、なんだか騙されたような気さえしたほどです。

しかし初めこそ少し戸惑いはしましたが、レプリカの多用は、そうと知ってしまえば貴重な資料を一度に見ることができる機会となり、とても面白い経験でした。

例えば稲荷山古墳出土鉄剣は、刃に刻まれた字句がごく初期の天皇について語っていると言われ、日本史に置いて重要な史料です。私はこの剣を教科書の写真でしか見たことがなかったので、何となく大きくて立派な剣をイメージしていました。ところがレプリカで見た鉄剣は意外に細く、刻まれた文字も小さくて、目を近づけなければ読めないほどだったのです。これは実際に見なければわからないことですね。

更に、稲荷山古墳出土鉄剣のレプリカの近くには、七支刀のレプリカも展示されていました。七支刀もまた刃に文字が刻まれていて、古代日本を知る貴重な史料です。これも想像していたより細く小さなものでしたが、面白かったのは、稲荷山古墳出土鉄剣と同じくらいのサイズ感であったことです。稲荷山古墳出土鉄剣と七支刀の本物は、それぞれ別の場所に保管されていますから、このように並べて見るのはレプリカでないとできません。つまりレプリカで並べてあったからこそ、二振りの刀が同じサイズ感であることを知ることができたわけです。

レプリカの多用は、何だかにせものを量産する行為のような気がして、私はあまりいいイメージを持っていませんでした。しかし国立歴史民俗博物館のような使い方ならば、教科書や研究書を読むだけではわからない学びを得られます。まるで新しい世界が開けたようで、私はこのポイントだけでも、本当に感心してしまいました。

 

ポイント②:ジオラマの多用

そもそも私がこの博物館を訪れようと思ったきっかけは、高度経済成長期時代の団地の一部屋が、館内に再現されていると聞いたからです。残念ながらコロナ感染防止のため、平常時には中まで入れるらしい団地の部屋は、外からしか見ることができませんでした。しかし予想していた以上に、この博物館は大小さまざまのジオラマで溢れていて、団地に入れなくとも、充分楽しむことができました。

普通ジオラマは、その博物館が立っている地域の昔の風景や鳥観図を写すことが多いものです。ところが国立歴史民俗博物館では、もっとフレキシブルな使い方をしていました。例えば古代日本の北辺であった多賀城周辺、平安時代の京の都、中世になって水運が発達した大坂周辺、徳川家が統治した江戸などなど、つまりいろいろな時代の日本全国の風景を見ることができたのです。また、縄文時代の生活風景をあらわしたり、中世の様々な職能を見せるのに、等身大の人形も効果的に使用されていました。更に、先述した団地や昭和の街並みなど、タイムトラベルを楽しめるような等身大の風景もつくられていました。様々な角度でジオラマを楽しむことができたわけです。

またジオラマとは少し違うのですが、昭和時代の展示室の壁がレンガ造り風になっていたことも、雰囲気があって面白かったです。歴史を学ぶだけでなく、視覚的に印象付けるために、様々な工夫がされていると感じました。

 

ポイント③:俯瞰を意識した展示法

国立歴史民俗博物館を見ていると、博物館としての立ち場を定めないようにしているのかなと思うことが多々ありました。展示資料は豊富に用意されていますが、それをもってこういうふうに見せたいという意図があまり読み取れず、どちらかというと、どう読み取るかは訪れた人に任せているように感じられたのです。

例えば太平洋戦争がテーマのとき、大抵の博物館の展示の仕方は決まっています。大日本帝国の躍進、広がる戦線、男性の出征、銃後の辛い暮らし、学徒出陣、空襲、敗戦という流れですね。着目する点は博物館によって異なっても、この流れは変わりません。言い方は少し乱暴ですが、展示室を進むにつれて、だんだん暗い雰囲気になっていくものです。

ところが国立歴史民俗博物館は、そういう演出が皆無ではないものの、それほど強くありませんでした。というのも、負けていく日本関連の展示資料と並行して、勝ち進むアメリカの資料も展示していたからです。例えば日本が官民とも多大な犠牲を出した南洋諸島関係の展示では、アメリカが日本人に降伏を呼び掛けてまいたビラも一緒に展示され、双方の立場を見ることができました。銃後の苦しい生活に関連した展示では、その天井にB29らしき模型がありました。そして原爆に続く日本降伏の展示では、日本の無条件降伏が報道されているアメリカの新聞も一緒に展示されていました(カリフォルニアの新聞だったかと思いますが、初めて見た資料でした。号外3本めだったようで、翌日はお店も全部お休みとの報道。アメリカの喜びようがわかりますし、あの大国にとってもそれほど大きな戦争だったのだと改めて感じました)

これらの展示法が示すのは、なるべく歴史を俯瞰的に見るよう意識されているということです。もちろん日本史を伝える博物館ですから、日本に寄っていて当たり前なのですが、そこにアメリカの視点が加わることで、印象はかなり変わってきます。「日本にとっての悲惨な戦争」と「アメリカにとっての輝かしい勝利」が両立していることを知るのは、本当に大切なことです。

こういう俯瞰的な視点は、テーマのつくり方にも及んでいました。他の博物館であまり見かけないテーマだと、いわゆる「えた・ひにん」等と呼ばれた被差別民やアイヌ民族の歴史なども、広いコーナーを設けて触れられていました。それも、「こんなに悲惨な歴史があった」「だからこうすべきだ」という感情を煽るような説明や結論は付随しておらず、飽くまで淡々と資料が展示されていることに、好感を持ちました。いい悪いを博物館が伝えるのではなく、こういうテーマが日本にはある、と知らせること自体に意味があるのだと思うからです。

 

ポイント④:展示室ごとに設置した休憩所

博物館で休憩を取ろうと思うと、だいたい展示室のすみにちょっと据え付けてある小さなベンチや、展示室の外にある休憩室で過ごすことになりますね。足が疲れてしまって、展示室の後半はほとんど見ることなく、ひたすら外の休憩室を目指してしまった、という経験のある人もいるのではないでしょうか。

国立歴史民俗博物館は、この問題を、展示室が終わるごとに休憩室を設けることで解消していました。どの休憩室にも、椅子が設置されているだけではなく、自動販売機やトイレまで用意されています。これは海外でもあまり見た記憶のない配慮です。展示室の数から、少なくとも施設内に6つ以上の休憩室やトイレがあるわけで、その設置や維持には相当の金額もかかるはずです。これには本当に驚きました。

 

まとめ: 

ポイント①とポイント②から読み取れるのは、国立歴史民俗博物館は、所蔵している資料を見せるための博物館ではなく、日本通史を視覚的に語るための博物館であるということです。いい意味で、とても教科書的です。ですから千葉にありながら千葉に特化して語ってはおらず、日本のあちこちがテーマになっています。日本のどの地域から訪れても、あるいは外国人であっても、日本史を楽しく学べるに違いありません。

またポイント③の考え方は、私が思う歴史の学び方に合致していて、個人的にはとても好印象でした。子供に見せたいのはこういう展示がされている博物館だなと思いますし、大人にとっても人それぞれのよみ方ができる博物館だと思います。

国立歴史民俗博物館はとても広いのですが、ポイント④によって、自分のペースで周りやすくなっているのもよかったです。小さな子供が飽きてしまってもすぐに外へ連れ出せますし、疲れた大人も足を休められます。休憩室から直接出口に向かえるところもあったので、今日は古代と中世だけ見て、後日、近世以降を見る、という周り方も可能です。

私個人の経験から言えば、日本史を学ぶのに、ここまで気が配られている博物館は珍しいと思います。加えてスタッフの方たちも皆丁寧で気持ちよく、本当に楽しい一日が過ごせました。またゆっくり見に行きたいですし、次こそは、団地のジオラマに入ってみたいです(*^-^*)。

 

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【中間報告】2021年の4目標

こんにちは。

夏川夕です。

 

今年の松の内に、2021年の目標をこちらの記事で宣言(?)しました。

natsukawayu88.hatenablog.com

2021年も半ばに差し掛かった今、目標の達成度がどんな感じか、この記事で振り返ってみたいと思います。

 

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(1)電子書籍を出版する。

こちらはただいま据え置きです。

電子書籍で出版というのは今でも興味はあるんですが、出版は比較的簡単にできても、たくさんの人に読んでもらうのには相当のプロモーションが必要であることに、最近気がつきました。広告方法について個人で試行錯誤するのも、楽しい作業だと思います。しかしそれより先に、まず出版社の力を借りる=出版賞に挑戦する方が、<たくさんの人に読んでもらう>という目標を叶えるには、ひょっとしたら早道であり、堅実路線なのかもしれないと、この半年で考え方が変わってきています。

出版賞に応募して落選した作品を、改稿して電子書籍で出版、というのも考えていますが、落選した作品を出版するのもうーんという感じで、いま一つ一歩踏み出せません。いずれにしても、目標(2)を達成してからの話になりそうです。

 

(2)出版賞へ3作応募する。

6月9日現在、次の出版賞2点に応募しています。

小説すばる新人賞

電撃小説大賞

できればあと1~3作、今年に応募したいなと考えています。今、頭の中にある物語を、とにかくかたちにして挑戦してみたい。

私はどうもお話をつくりながら、「今書いている物語と念頭にある出版賞が合致するだろうか」と詮無いことを考えてしまうくせがあるので、「とにかくかたちにして」がポイントです。

応募ができたら、またブログで報告していきます(*^^*)

 

(3)3足の草鞋を1足にする。

3足の草鞋というのは、作家業、ライター業、アルバイトの3つのお仕事のことです。ライター業は2021年に入って以降、新しいお仕事は受け付けておらず、税金の諸々が終わったらライター用のアカウントは削除するつもりでいます。

(ちなみに個人的な体験ですが、クラウドソーシングの収入をお役所に報告するのは、少々面倒でした。個人情報を隠した金銭のやり取りが、税務手続きにおいてはあまり想定されていない感じです。私はそれほど多い収入ではなかったので比較的簡易な手続きで済みましたが、収入の多い人はどうやっているのだろうと不思議です。お役所が悪いわけでもないので、クラウドソーシングか税務手続きのどちらかもしくは両方が、皆が楽なように整備されるといいなと思います。)

アルバイトの方は、興味のある分野ということもあって仕事自体は楽しく、慣れてしまえば作家業と両立できそうなことがわかってきました。雇用主側の意向もあるので、続けられそうなら続けるし、無理そうなら辞める、くらいのつもりでいます。

最近、いくつかの仕事を組み合わせて収入を得る、という生き方に夫婦で興味を持っているので、そのセルフモデルケースになればいいなと思っています。

 

(4)読んだ本を記録する。

これはこのブログのトップ記事で続けています。現在58タイトル。

そのほか、研究書や実用書を実は結構読んでいます。何となく「読書している」のと「勉強している」のでは本への姿勢が違うので、「読書したなあ」と思ったときだけ記録しています。研究書や実用書は流し読み・拾い読みしていることもありますしね。

何にしても、今までこうして記録を取ったことがなかったので、見返してみると面白いです。学生時代は外国人作家のSF小説推理小説ばかり読んでいたものですが、今は圧倒的に日本人作家が多いですね。

最終的に何冊になるのか楽しみです。

 

2021年の4目標の達成度は、ちょうど50%というところです。残りの半年間、特に<物語をかたちにする>というところを強く意識して、過ごしていきます。

 

 

 

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”闇落ち”<火星シリーズ>。E.R.バロウズ『The Moon Maid』の感想&解説

こんにちは。

夏川夕です。

 

エドガー・ライス・バロウズの<月シリーズ>第1巻を読み終えました。バロウズは日本でも<火星シリーズ>、<ターザンシリーズ>、<ペルシダーシリーズ>などが有名ですが、この<月シリーズ>はネット上でもほとんど感想を見かけません。というのも日本語翻訳版が刊行されたのは随分昔で、そもそも今の日本では、書籍を手に入れること自体が難しくなっているからだと思います。私も日本語版は諦め、原書をKindleに落として英語で読みました(KindleWi-Fiが繋がってなくても、ワンタッチで辞書が使えて便利なんです)。

そんな苦労して読んだ<月シリーズ>ですが、期待していた物語の中身以上に、バロウズの思想みたいなものが強く見えて大変に面白かったので、ここにまとめておきたいと思います。この作品、感想をシェアすると、とても楽しめそうです。ネタバレもどんどんしていくので、まっさらな状態で読みたい方はご注意くださいね。ただ、<月シリーズ>の前には、<火星シリーズ>を読んでおくのを強くお勧めします。

 

 

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 バロウズの作風について

そもそもバロウズは、いわゆる冒険小説を得意とする作家です。舞台となる世界のエキゾチックな描写、美男子と美女のロマンス、それを邪魔する陰謀と、道を切り拓くチャンバラなどで、大衆を楽しませることを主眼においた娯楽小説。私が大好きな<火星シリーズ>が、その筆頭です。一方で、作品の文学的・社会的価値は、それほど重視していないように感じます。

よく言われていることですが、バロウズは物語の運びや舞台設定は非常に魅力的なのですが、キャラクターと単純な物語の起承転結は紋切り型です。

主人公はいつも、強い・優しい・イケメンの三拍子そろった好青年。どんな状況でも絶対に諦めず、最後には勝利を勝ち取ります。加えて色恋沙汰には鈍感で、ヒロインの気持ちどころか自分の気持ちにも物語終盤まで気づかないのもお約束。たいてい一度はヒロインを怒らせてまごまごします。

そんな主人公の相手を務めるヒロインは、いつも絶世の美女で、誇り高く、精神的に強くて貞淑バロウズの好みなのかエキゾチックの演出なのか、黒髪・黒目であることが多いです。また、ヒロインの出自(あるいは主人公の出自が謎に包まれている場合も)は王族であることも、ほぼパターンになっています。

ここまでで、物語の起承転結も何となく察しがつきますよね。異世界に放り出された主人公が、望まない結婚を迫られたり命の危機にあるヒロインを助けて恋に落ち、彼女を救うことが一つの国や、場合によっては異世界そのものを救うことに繋がって、最後は勝利・美女・地位と、すべてを手に入れて大団円です(もっとも、そういうシンプルな物語にいろいろなアレンジを加えて面白く書いているのがバロウズです。大好き)。

ところが<月シリーズ>は、このバロウズパターンの合わせ鏡と言うか、セルフアンチテーゼみたいなお話でした。娯楽を主眼に置いた<火星シリーズ>とは異なり、バロウズの思想も強く見えました。そこがすごく面白かったのです。

 

<月シリーズ>第1巻の物語

<月シリーズ>第1巻は、『The Moon Maid』というタイトルで、日本語では『月のプリンセス』などと訳されています。物語の運びは、一見典型的なバロウズパターンです。

主人公のジュリアンは、火星を目指して宇宙船で飛び立ちますが、事故によって月に墜落、月の地底世界に迷い込みます。その不思議な世界を探るうち、半獣半人族に捕らえられ、次いで大理石のような肌を持つ人型の月人、ナー・イー・ラーと出会います。ナー・イー・ラ―も半獣半人族に捕らえられているのですが、ジュリアンは彼女と共に逃げ、彼女の父が治める月の都市帝国・ライスへ赴きます。ところが、ライスでは玉座を狙う貴族、コー・ターが、かつてライスの人々から枝分かれしたカルカール人と組んで、クーデターを企てていたのです。

バロウズパターンに従うなら、ジュリアンがコー・タ―を倒し、ナー・イー・ラーと共に玉座について大団円です。ナー・イー・ラーの祖国ライスは、月世界で一番の文明国とされていますから、ライスの王になれば月世界を支配したも同然です。

ところが、『The Moon Maid』ではそうはなりませんでした。その理由は、ひとえにジュリアンのライバルとされる、オーシスの存在です。オーシスはジュリアンと共に半獣半人族に捕らえられるのですが、ジュリアンとは異なり、半獣半人族と友情らしきものを結びます。そして、彼もまたナー・イー・ラーに恋するのですが、ナー・イー・ラーは彼を拒みます。というのも、オーシスはちょっとイヤな奴というか、粗暴で卑劣な側面があることがたびたび描かれているからですね。

ジュリアンとナー・イー・ラーが半獣半人族の元を逃げ出した後、オーシスはしばらく物語に登場しません。彼が再びあらわれるのは物語終盤、コー・タ―の陰謀をジュリアンが打ち砕いた直後です。彼はたくさんのカルカール人を従え、地球の知識でつくった爆撃機や手榴弾などを駆使して、ライスの町を破壊します。彼が望むのはナー・イー・ラーと結婚し、月の世界の皇帝になることです。

オーシスの猛攻にライスの人々は絶望し、次々に自ら命を絶ってしまいます。ジュリアンは滅びるライスを背にし、唯一生き残ったナー・イー・ラーを連れて、当てもなく落ち延びてゆきます。その後はジュリアンにとって幸いが重なり、ナー・イー・ラーを連れて地球に帰還し、物語は幕を閉じます。

 

『The Moon Maid』は"闇落ち"<火星シリーズ>

この物語の展開は、バロウズらしからぬようでいて、実はとってもバロウズらしい運び方です。注目すべきは主人公のジュリアンではなく、ライバルのオーシス。オーシスがやっていることは、<火星シリーズ>の主人公、ジョン・カーターがやったことと全く同じなんです。

ジョン・カーターは、火星に降り立った当初、緑色人と呼ばれる四本腕の巨体を持つ部族の間で暮らし、その族長のタルス・タルカスと友情を結びます。ジョンはある日、地球人と全く同じ姿をした美女、デジャー・ソリスが、緑色人に捕らわれるところを見ます。デジャー・ソリスは赤色人と呼ばれる人型の火星人で、都市帝国・ヘリウムの王女でした。ジョンは彼女を祖国へ送り届けようとしますが、ヘリウムは赤色人が治めるゾダンガという国と交戦中で、ゾダンガの王子にデジャー・ソリスを奪われてしまいます。ジョンはゾダンガの王子とデジャー・ソリスの結婚式に、タルス・タルカス率いる緑色人を連れて乗り込み、ゾダンガの町を破壊して、デジャー・ソリスを奪い返します。ジョンはデジャー・ソリスを救い、緑色人との稀有な友情を結んだ英雄としてヘリウムに迎えられ、王族の一員となるのです。

ね? オーシスが月の帝国・ライスにしたことは、ジョン・カーターがゾダンガにしたこととほぼ同じではありませんか。その世界の王女に恋人と認められたジョン・カーターは英雄であり、認められなかったオーシスは卑劣漢というだけです。

この鏡合わせの構造は、物語にはよく使われる手法ではありますが、私個人としては<火星シリーズ>を長らく愛してきただけに、オーシスがライスに乗り込んでくるところは、特別な感慨を抱きました。しかもオーシスは、「私は皇帝の中の皇帝、オー・ティスである!」などと月世界風の名を名乗っちゃっているので、こういうところも、「私は生まれは地球だが、本来火星人である」と自負しているジョン・カーターと同じだなあと、妙に愛着も湧いてきます。ジョン・カーターもまた、火星風の名を持ち、火星の王族たちによって「王者の中の王者」の称号を与えられた人物です。オーシスのキャラクター造形に対するバロウズの意図が、はっきりと見えますね。

つまりオーシスはまさに、バロウズ的英雄の"闇落ち"を体現したようなキャラクターであり、『The Moon Maid』はジョン・カーターの英雄譚をさかさまにした物語というわけです。オーシスとジュリアンを月世界へ運ぶ船の名前が、火星語で「火星」を意味する「バルスーム」であることが、とても暗示的ですね。

 

そして社会派(?)の側面も

もう一つ、<月シリーズ>で特徴的なのは、単なる娯楽小説に収まらず、バロウズの思想が強く見えていることです。『The Moon Maid』が書かれたのは1926年ですが、1922年にソビエト連邦が誕生し、資本主義対共産主義の目に見えない戦争が起き始めていたころです。この反共産主義については、多分第2巻以降により強く表れてくると思うのでここでは突っ込みませんが、一つだけ『The Moon Maid』でも、バロウズの思想主張らしいシーンがあったのでご紹介します。それは、ライスの人々と枝分かれした過去があり、物語終盤ではオーシスに率いられてライスの都市を破壊した、カルカール人の成り立ちについてです。ジュリアンにそれを話してくれたライスの男性、モー・ゴーの言葉を抄訳します。

「カルカール人は、もともと”考える人々”と名乗っていた。昔、カルカール人とライス人は一つで、世界は10に区分されてそれぞれに王を戴いていた。世界はとても栄えていて、都市や村がすみずみに広がり、船や電車や飛行機が各町を結んでいた。電話(電信?)もあった。富裕層と貧困層はあったが、福祉は平等で、教育を受ける機会は子供たち全員にあった。しかし、"無教育の方が少しばかりの教育よりもいい"という者たちもいた。歴史に照らしてみれば、僕もその方が良かったと思う。

 "少しばかりの教育を受けた者"が社会の大半を占めたとき、彼らは仲間内で、よりよい教育を受けた者たちの失敗を見つけることを始めた。そのうちそれは社会的組織になって、"考える人々"と呼ばれ始めた。"考える人々"は、考えているより喋っている方が多いのだけれど、彼ら自身は考えていると思っていた。長い時間をかけて、"考える人々"は不満を持った人々でいっぱいになり、とうとう政府を倒して、自分たちで社会を統治し始めた。王たちは追われ、支配層の多くは殺された。支配層の一部はライスの都市をつくり、そこに逃げ込んだ。"考える人々"は働かないし、何か新しく生み出すための訓練や知識の発展もしない。古いものを持ち続けることもしない。その結果、文化も科学も、政府や経済と一緒に潰えた。カルカール人は書物も記録もすべて破壊してしまったので、ライスに残った知識をもってしても、元の文化を取り戻すことはできないんだ」

この話を聞いて、ジュリアンは「絶望だ」とコメントしています。私もそう思います。

でも何より怖いのは、この物語が、単なる空想世界のお話でも、歴史の過去の出来事でもなく、ごく身近にあるように思えることです。そう思うのは、私だけでしょうか。

 

 

<月シリーズ>は、あと2冊あります。最終巻にはニッポン人が出るようで、それがとても楽しみです。原書で頑張って読み通します。

日本語の感想があまり見当たらないシリーズですから、この記事が誰かの参考になれば嬉しいです。

 

 

 

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