夏川夕の作家生活

歴史と異文化をテーマに小説を書いています。電子書籍にて出版予定。

感謝すべきことは数あれど、此度は徳川慶喜様へ

こんにちは。

夏川夕です。

 

今週のお題】「感謝したいこと」、歴史学ではいっぱい思いつくので、何を書こうか悩みます。Twitterでもつぶやきましたが、歴史学的には、史料が残っているだけでありがたやありがたやと思うんですよね。特にテーマを決めて研究する場合、望んでいた情報が書いてある史料が見つかると、本当に嬉しいです。大学時代、卒業論文を書くにあたって、必要事項が書いてある適切な史料が見つからず、いろんな町の史料室にお世話になりました。やっとほしい情報が載っている史料を見つけたときには、「これで論文が書ける!」と安心したのを覚えています。

とはいえ、「歴史学の史料」というあまりに大きなテーマについて書いても面白くないかなと思うので、フォーカスをしぼって、徳川の幕府は日本を守るため、計画的に倒されたという説について、ご紹介したいと思います。これがなかったら、今の日本はイギリスやフランスの植民地になっていたかもしれません。

 

 

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子供の徳川慶喜と、父の斉昭。斉昭は教育熱心な父親でした。この水戸藩の気風が、今回の肝です。

 

徳川幕府が倒れた経緯

徳川の幕府が倒れて明治維新となった経緯については、一昔前までは、「外交に消極的な無能政府を、先見の明がある維新志士たちが倒した」というストーリーが主流でした。というのも、現在の日本政府が明治政府の流れを汲んでいるからですね。徳川幕府について悪く言わなければ、自分たちが政権をとった説明がつかないからです。前の政権について悪く言うのは、歴史の常ですね。

しかし最近になって、そのストーリーが見直されつつあります。徳川幕府も慎重ながら外交政策は積極的にしていて、西洋式軍隊の設立や、外洋航行用の船の建造にも着手しています。外国と交流するにあたり、幕府組織の抜本的改革ヴィジョンもありました。薩長の秘密同盟についても情報を得て、倒幕の可能性についても知っています。ではなぜ、幕府は倒されてしまったのでしょうか。それには、最後の将軍・徳川慶喜の思想が大きくかかわっています。

 

徳川慶喜ってどんな人?

徳川慶喜は、水戸藩の出身で、一橋家に養子に行った人です。この水戸藩出身というのが、日本の歴史にはとても深くかかわっています。

まず水戸藩というのは、よく知られているように徳川御三家の一つ・水戸徳川家が統治する藩です。尾張紀伊に比べて江戸に近いことから、有事の際、江戸の将軍が一番頼れる存在というのが水戸徳川家でした。その一方で、水戸藩は創立以来、「幕府より天皇」という考えが強い藩でした。これは戦国時代を駆け抜けた徳川家ならではの作戦で、万一「幕府 対 天皇」という図式になっても、徳川家の一部が天皇側について、家が残れるようにしていたのですね。そういう特殊な教育をする家でしたから、水戸徳川家からは将軍は出さない決まりでした。水戸徳川家は副将軍と呼ばれ、将軍に物理的に一番近い存在でありながら、それどまりの家だったのです。

そんな水戸徳川家出身の慶喜ですが、最終的には将軍の座に就いてしまいます。なぜそういうことになったのか、詳細は割愛しますが、根本には、慶喜が一橋家に養子に出て、水戸徳川家の者ではなくなったことがあります。本来、将軍になるべきでない、「幕府より天皇」の教育を受けた慶喜が、将軍に就いてしまった。このことがすべての始まりです。

 

慶喜将軍時の日本周辺

さて、慶喜が将軍になった1867年の日本は、真っ二つに分かれていました。というと、幕府 対 薩長と思い浮かびますが、その背後には、フランスとイギリスがいました。

1850年代前後というのは、欧米諸国がアジアに進出してきて、アジアの中で国盗り合戦を演じた時代です。例えば中国の一部やフィリピン、インドシナなどが植民地化されています。幕府はその情報を得ていたので、外交には非常に慎重だったのですね。どの国もできるだけ公平に取り扱い、不満から戦争にならないよう、バランスをとりながら外交しています。翻って欧米諸国から見ると、日本との交易はお金になるので、自国を一番に扱ってもらいたいわけです。そのため、あの手この手で幕府に取り入ろうとします。

その争いが最も激しかったのが、フランスとイギリスでした。この2つの国は互いのライバル意識の強さで有名ですね。開国直後の日本に最も近かったアメリカが南北戦争で離脱したため、フランスとイギリスは、日本と一番近い国の座を巡って争うのです。ここで重要なのは、フランスもイギリスも、「日本と一番近い国の座」が欲しいだけで、幕府と仲良くなりたいわけではないということです。

もちろん、フランスもイギリスも、最初は幕府と交流していました。ところが、日本の事情を深く知るにつれ、幕府は政権を預かっている組織に過ぎず、本当の王は天皇であることに気づき始めます。フランスはそれでも幕府と仲良くし続けますが、イギリスは幕府から離れ、薩摩を通じて朝廷に近づこうとします。このへんは、革命を起こして王政を倒し、帝政を敷いたフランスと、王室が君臨し続けているイギリスの違いかもしれませんが、単純に、日本に派遣されている大使の個人的意向が反映されているだけかもしれません。

フランスは、幕府をヨーロッパの社交界にデビューさせ、フランス式軍隊の装備や知識を与えています。一方イギリスは、薩摩と戦争をきっかけに急接近し、薩摩や長州に武器を売り始めます。つまり、幕府 対 薩長の図式が、いつのまにかフランス 対 イギリスに変わっているわけです。ある国の国土で別の国同士が争うことを代理戦争と言います。これは近代ではよくあることで、アメリカの独立戦争でも、同じくフランス&独立軍 対 イギリス軍という図式が起きています。

もし、日本で幕府と薩長が戦争になれば、フランスやイギリスにとっては、自分の国土や兵隊を失わず、武器が売れ、しかも肩入れしている方が勝てば利権も得られるかもしれないなど、いいことづくしになります。幕府は、イギリスが薩長に武器を売っていることを知っていたので、この代理戦争になることを危惧していました。

 

徳川慶喜に感謝すべき理由

徳川慶喜の行動には、賛否両論の学説が出ていますが、私には代理戦争をとにかく回避しようとしているように見えます。

まず慶喜は、将軍になってからわずか半年で、大政奉還という大きなイベントを起こしました。大政奉還とは、天皇に幕府が預かっている政権を返すことで、つまり幕府のよりどころを自ら失う行為です。しかし天皇は、新しい政治体制ができるまで、幕府に政治を続けるよう命じます。これは天皇慶喜の間に信頼関係ができているからこそ行えた業で、つまり、慶喜は、倒幕派に向けて、天皇自らが幕府に政権を預けていることを念押しし、精神的な公武合体を今一度見せつけているわけです。そのあと、幕府が朝廷と結びついて、新しい政治体制をつくる計画が存在した痕跡もあります。

ところが、大政奉還のさらに半年後の1868年正月、薩長を始めとする倒幕派が、まだ少年の天皇を囲い、明治政府の樹立を宣言します。慶喜が見せつけた精神的な公武合体から、強引に幕府を切り捨てたのですね。このとき、慶喜大坂城にいました。幕府軍大坂城に集結していて、戦争をしようと思えばできる構えです。ところが、慶喜はわずかな手勢だけ引き連れて、大坂城を出て、江戸へ帰ってしまいます。「敵前逃亡」とも言われる、傍目には情けない姿です。リーダーを失った幕府軍は、それでも天皇を取り戻そうと京都へ向かうのですが、新政府軍にぼろぼろに負けてしまい、目的は果たせませんでした。この負けにより、新政府軍が正で幕府軍が悪という流れができあがり、西日本の藩の多くは新政府軍側につき、幕府軍は江戸へ敗走、そののちも負け続け、新政府軍の日本統治、という運びになります。

ですから、慶喜幕府軍を率いて京都へ向かっていれば、幕府軍が勝って歴史は変わっていたかもしれない、だから慶喜は無能だ、という評価が、以前は多かったのです。

ではもし、本当に慶喜幕府軍を率いて京都へ向かっていたら、どうなっていたでしょうか。幕府軍は勝っていたかもしれませんし、負けていたかもしれません。しかしそれは実は小さなことで、問題は別にあります。

もし幕府軍が京都へ攻め上って新政府軍が押されたら、新政府軍は京都へ火を放ち、天皇を連れて京都の山あるいは長州に立てこもる計画だったと言います。そんなことになっていれば、今、私たちが楽しみ、日本観光の目玉にもなっている京都の名所古刹はなかったでしょう。さらに、将軍が新政府軍と争う構えであれば、日本中の武士たちが幕府軍側と新政府軍側に分かれ、戦国時代に逆戻りしていたに違いありません。戦国時代との大きな違いは、日本を狙う諸外国の存在です。

代理戦争を避けるためと言いましたが、代理戦争になればまだましな方です。代理戦争は、外国を儲けさせはしますが、まだ表向きは日本国内の争いです。しかし日本国内が相争い、双方が疲弊したところを狙って、外国が攻め込んできたらどうでしょうか。疲れ切った日本が、かなうはずがありません。あっという間に植民地化されてしまうでしょう。日本は島国ですから、九州と四国がイギリス領、本州がフランス領、北海道がロシア領のように、国土が分割されてしまった可能性も大いにあります。

徳川慶喜の「敵前逃亡」は、まず西日本を新政府軍側につけ、ついで東日本の幕府軍側の動きも抑制し、結果的に江戸の無血開城を成し遂げました。もちろん、それでも幕府のために多くの武士たちが戦い、たくさんの血が流れました。しかし幕府そのものが消滅したために、代理戦争を狙う諸外国のつけいる隙はなく、あくまで新政府の全国統治戦争というかたちで、争いは早期に収束できたのです。このため、日本は戦争による傷を最小限に抑えられ、そのおかげで明治の目覚ましい進歩があったのだと言えるでしょう。

 

いかがでしたか?

歴史の善悪は後世の人が判断すると言いますが、慶喜の行動は、本人の計算かどうかは置いておいて、結果的に日本を代理戦争から救ったと言える、評価すべきものだったと思います。慶喜が新政府軍に対してすぐに恭順の態度をとったために、そのあとの幕府と新政府の話し合いがスムーズに進み、日本は速やかに政権交代、おまけに徳川家の血筋は絶やされることなく現在にまで続いているという結果を見れば、理想的な政権の幕引きだったのではないでしょうか。

更に言うなら、慶喜がそもそも新政府にすぐに恭順の態度をとったのも、水戸藩創立以来の、「天皇を尊ぶ」教育のおかげです。二百数十年前から予想されていたかのように、徳川家と日本を守った水戸藩の教育、まるでできすぎた歴史小説のようなストーリーですね。本当に感謝すべき相手は、日本とその歴史を愛し、水戸藩挙げて日本の研究を奨励した、水戸学の創始者徳川光圀その人かもしれません。

 

夏川夕

 

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「鬼」の英訳を考える

こんにちは。

夏川夕です。

 

昨日、語学オタクの友人と話していて、「鬼」の英訳について盛り上がりました。

私が思うに、「鬼」は日本特有の概念です。中国で「鬼」と言えば死んだ人の魂や幽霊を指すそうですが、日本の「鬼」は必ずしも命を落とした人ではありません。この「必ずしも」というのが厄介で、生きたまま鬼になった人もいれば、死んで鬼になった人もいるのです。つまり、「鬼」になるのには生死は関係ないのですね。

そんな「鬼」ですが、ブーム真っ最中の『鬼滅の刃』では、"demon"と訳されています。これは、いわゆる妖怪を英訳するときのお約束のようで、例えば様々な妖怪が登場する漫画・『犬夜叉』でも妖怪はすべて”demon”と訳されているのですね。

では”demon”というのは、なんでしょう? wikipediaを引いてみると、「悪を象徴する超越的存在」とあります。日本語では、「悪魔」と訳されます。つまり”demon”とは、悪を愛する悪の権化、要は「ワルモノ」ということです。

すると、「鬼」=”demon”=「ワルモノ」という図式が成り立ちます。なんとなくすっきりしないような、なんだか変な気がしませんか? それは、「鬼」はワルモノでないと、私たち日本人は感覚的に知っているからです。

「鬼」の描かれ方は様々です。わかりやすい対比に、『桃太郎』と『泣いた赤鬼』があります。『桃太郎』に登場する鬼は、退治されるべき存在として、わかりやすく「ワルモノ」の位置にいます。しかし『泣いた赤鬼』では、村人と仲良くしたい赤鬼と、その赤鬼の心を理解して自ら「ワルモノ」を演じる友人の鬼が書かれます。『桃太郎』と『泣いた赤鬼』、どちらの「鬼」も、私たちは違和感なく受け入れられますよね。しかし、「ワルモノ」でない『泣いた赤鬼』の鬼は、"demon"とは言えない存在です。

日本の「鬼」は、本来、人間とは別世界に生きる存在という概念です。別世界は山であったり海であったり、あるいは人の心であったり闇の中であったりします。「鬼」はどこからともなく生まれいづるものですが、人が強い情念を持つと、「鬼」に変化することもあります。反対に、「鬼」として生まれた者、あるいは「鬼」に変化した者が、仏教や愛の力を借りて、人に生まれ変わったり、あるいは成仏したりすることもあります。

つまり「鬼」とは「ワルモノ」として規定できるものではなく、常に周囲の環境や情念によって揺れ動く存在なのですね。こんなに不安定なものが、確固たる悪を掲げる"demon"であるはずがありません。

それでは、なんと訳せばいいか。件の友人との会話中では答えは出なかったのですが、一晩考えて、私は"creature"が適当なのではないかなと思いつきました。日本語で「クリーチャー」というと、なんだか醜い、おどろおどろしいエイリアンを連想しますが、本来"creature"とは、「生きもの」「架空の生きもの」などを指す非常に漠然とした言葉です。例えば"my dear creature"は「私の大事な生きもの」と訳せますが、これで自分の子供を指すことさえあります。

日本の「鬼」も、昔は「もの」と呼ばれていたという説があります。「もののあはれ」などと言いますが、この「もの」は漠然とした存在を指し、そのときどきで意味する範囲も対象も異なります。イメージとしては「闇にうごめく姿の見えないもの」、そのイメージを「隠」つまり「オンヌ」と呼び、やがて変化して「鬼」になったのです。「鬼」はそれくらい漠然として、かたちの不安定な存在なのです。

 

少し蛇足になりますが、"demon"という訳にも、一理ないことはありません。というのも、"demon"は本来、キリスト教でない宗教の神々であったという説があるからです。つまり、キリスト教から見ると、異教徒の神々は間違った神の教えを広める「ワルモノ」というわけで、本当の"demon"は悪どころか、かつては人々に崇められた善の神であったとも言われています。そのことを前提にすれば、「鬼」を"demon"と訳すのにも、清濁併せ持つ存在という意味で、筋は通っています。

 

とはいえ、"demon"の本当の出自はあやふやで、やはり「ワルモノ」という印象はぬぐえない以上、「鬼」の訳には向いていないのでは?と私は思います。

友人との会話では、いつか私の小説が英訳されたら……という話でも盛り上がりました。そのとき、「鬼」はぜひ、"creature"で訳していただこうと思います。

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鬼の顔は、怖いんですけれど、悲しそうなんです。「もののあはれ」とはこのことです。

 

夏川夕

 

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執筆の苦しみ。執筆の楽しさ。キャラクター造形の観点から。

こんにちは。

夏川夕です。

 

現在、時代小説執筆中です。なかなか進みません。なぜ進まないのか、その理由は単純で、キャラクターを掘り下げ切れていないからです。よく、小説を書く前にはプロットを入念に練るという物書きさんがいますが、この方法ができる人は、キャラクターのデザインがとても上手な人だと思います。私はどうもキャラクターデザインというのが一番苦手で、いくらプロットを入念に作っていても、実際その場に差し掛かると、「このキャラクターはこんな行動をしないだろうな」という違和感が生まれてきてしまい、結局プロット練り直しになります。ですから、ストーリーさえある程度頭にあれば、見切り発車で書き出してしまうことがほとんどです。

しかし、見切り発車が効率の悪い書き方というのもまた事実です。調子がいい時はさくさく進むのですが、ひとたび引っかかると、同じ場面からいつまでも進みません。そういう場合は、とにかくキャラクターに付き合い続けるしかありません。同じシチュエーションを、腑に落ちるまで幾度も書き直します。発想の転換がぱっとできればすぐに抜けられるのでしょうが、書いているのが私という個人なので発想を転換しているつもりでも、なかなか枠から抜け出せず、堂々巡りを繰り返すこともあります。

堂々巡りは苦しいのですが、苦しさのあまり、自分が納得していないストーリーを無理に進めると、結局、破綻してしまいます。キャラクターの中に矛盾が生じるからですね。一個の人間としてのキャラクターの範疇外で生じた矛盾は、どんなストーリーをつくっても解消できません。一個の人間の中に、二人の人格が存在するようなものだからです。

天性の作家の才能がある人は、こういう一人の人間をつくるという作業を、難なく進めてしまえる人だと思います。残念ながら私にはその才能がないので、経験で埋めていくしかありません。しかしだからこそ、キャラクターが一人の人間として私自身の手を離れたときは、思わぬ方向へ転がる話に手を焼きつつも、楽しい瞬間であり、物書きの醍醐味だと思っています。

 

現在、私が執筆している時代小説の主人公・兵藤武虎は、2か月ばかりも付き合っているのに、どんな人物なのかまだ見えてきません。辛抱強く付き合いつつ、でも12月には間に合わせたいなと考えている今日この頃です。

 

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彼の輪郭は、まだぼんやりしています。

 

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ピザで日本通史を語ってみた

こんにちは。

夏川夕です。

 

今週のお題】「ピザ」、初めは歴史学から書くには難しいテーマだなあと思っていたのですが、ピザに欠かせないチーズに焦点を当てたとき、これはこんなふうに日本の歴史をたどれるぞ、と気づきました。

 

 

古代日本のチーズと酪農衰退

日本にいつ乳牛が入ってきたのかは定かではないのですが、少なくとも仏教が入ってくる以前から、古代日本では、牛が飼育されていました。ちょっと前にネットで話題になった「蘇」は、牛乳から作るチーズのようなもので、天皇への献上物になっていたようです。蘇は作るのに手間もかかりますし、記録から見るに保存食品ではなさそうなので、身分の高い人しか食べられない食品でした。一般庶民の口に入らないということは、貴族社会が衰退するに従って蘇も食べられなくなってくるというわけで、武士の台頭に伴い、蘇は自然消滅的に消えていくことになります。

鎌倉時代から江戸時代にかけて、武士が統治する社会になるにつれて、牛はほぼ完全に労働力としての扱いになり、蘇はおろか、牛乳を飲むことも避けられるようになりました。これは政権が貴族から武士に移ったという理由だけではなく、四つ足の獣の摂取を忌避する仏教の考え方により、牛の乳を飲むこと自体がタブーになったからだと思われます。実際は、牛肉や牛乳はごくわずか食べられてはいましたが、食品としてではなく、薬としてです。「獣臭い」=「まずい」とも認識されていたようですね。このため、蘇は古代の食品として文献に残るのみになります。

 

酪農復活・その背景

幕末、欧米の肉食文化が入ってくると、牛は再び、労働力から食物として立場を変化させていきます。のちに日本食の代表となる牛鍋がその筆頭ですね。また、明治天皇が牛乳を飲むことを習慣にしていたことも、酪農・畜産振興の後押しになったようです。明治政府は、天皇の下に政府をつくった徳川幕府と異なり、天皇を中心に政府をつくっていたので、天皇を全面に押し出す必要があったこともあるのかなと思います。つまり牛乳を飲むことは、西洋文化に倣い、天皇を敬えという明治政府の方針にぴたりと一致していたわけです。

酪農・畜産は、幕末から明治にかけての日本社会にとって、新しい産業です。新産業に携わったのは、意外にも武士が多かったようです。なぜなら、そもそも明治政府というのは、薩摩や長州などの一部地域出身の武士と、朝廷にいた公家のみで構成された政府なので、そのほかの藩や幕府に仕えていた武士たちの行き場がなく、失職してしまっていたからです。もちろん警察や軍の幹部として新政府に仕えることもできましたが、主従関係を大切にしていた武士たちの間では、幕府の敵であった新政府に仕えるなら、刀を捨てて新しい商売を始めた方がいいと考える傾向が強かったのでしょうね。

ちゃんと調べたわけではないのですが、明治維新後は、北関東で畜産・酪農が盛んになったようです。外国人居留地である横浜が近いこともあるでしょうし、牧場に土地の性格が向いているのかもしれないとは思いますけれど、北関東の藩は幕府寄りだったこととも無関係ではないような気がします。実際、私が主に研究している水戸藩の武士の中にも、明治時代になってから、藩という組織を去って、牛を飼い始めた人が何人かいるのです。プライド高い 武士が牛の世話なんかするのかしら? とも思いますが、武士は馬を乗りものとして身近に置いていましたから、大きな動物の世話をすること自体は、そんなにハードルの高いことではなかったのかもしれませんね。

 

北海道の開拓

もう一つ、日本の酪農・畜産と日本史に大きくかかわっていると言えるのが、北海道開拓でしょう。もともと蝦夷と呼ばれていた日本の北の土地は、江戸時代、ロシア船が出入りしてアイヌ民族と交易していたこともあり、ロシアの南下を危惧した徳川幕府が、細々と開拓を進めていました。水戸藩の名君と呼ばれた徳川斉昭も、蝦夷の地理的重要性を認め、藩を挙げて蝦夷開拓の請負を名乗り出ていたほどです。

明治政府になってから廃藩置県が行われるまで、四年ほどの間があります。この期間は、まだ徳川時代の藩が機能していました。そのわずかな期間に、水戸藩を始め、いくつかの藩が、北海道開拓を請け負っています。とはいえ、藩も新時代に適応していくのに精いっぱいで、このときはあまり北海道開拓にまで手が回らなかったようです。しかし水戸藩は、斉昭の意志を継いで、藩主の徳川昭武自ら北海道を視察しています。

ところが廃藩置県が断行されると、北海道開拓使という組織を通じて、明治政府自らが開拓に乗り出していくようになります。(ちなみに、北海道開拓使の初代長官は、先週のお題「鍋」で引っ張ってきた佐賀藩の鍋島家が務めています。ここでもさりげなく要所を抑える鍋島藩です)

北海道の開拓は、簡単に言うとインフラなどの基礎整備は国がするので、開拓に挑戦したい人は移民として募集します、というやり方でした。それに早々と応じたのが、廃藩置県により失職した武士たちです。こうした人たちは、北海道を農地として開墾したり、鮭や昆布をとったりしていましたが、北海道が日本の土地として落ち着いてくるにつれ、広大な土地で酪農が行われるようになりました。

 

ピザへつながる2つの道

さて、ピザからだいぶ遠ざかっているようですが、ちゃんと道はつながっています。明治維新をきっかけとして、酪農が日本で復活しましたが、 牛乳はそのまま飲まれることがほとんどで、チーズとして食べられることはほとんどなかったようです。古代の蘇までは復活しなかったのですね。

ではどうやってピザが食べられるようになるのかというと、明治時代を過ぎて、外国文化が当たり前になる、昭和時代まで待たなければなりません。ところが、日本にピザが入った時期はどうやらはっきりしないようで、戦前説と戦後説があるようです。

私自身は、戦前説が濃厚なのではと思います。というのも、ピザの出生国、イタリアが、ドイツを仲立ちにして、日本と同盟を結んでいるからです。有名な日独伊三国同盟ですね。妹尾河童の『少年H』には、太平洋戦争直前の神戸に、ドイツ人もイタリア人も住んでいて、同盟を結んだため、この2ヵ国の人々を兄弟扱いしたことが書かれています。それならば、地域限定的になりそうとはいえ、イタリア人に焼かれたピザが、日本人に供された可能性は大いにあるのではないでしょうか。しかし、イタリアは太平洋戦争が始まったわずか2年後に同盟を破棄し、日本政府から敵性外国人の扱いを受けるので、ひょっとしたらピザを焼く暇もなかったかもしれません。

戦後説をとるなら、日本にピザを広めたのはアメリカ人ということになるでしょう。占領下の日本では、アメリカ軍に向けた店が次々にオープンしました。その中には、すでにアメリカ人の国民食としての地位を築いていたピザを食べさせる店があり、勝者としてのアメリカ文化を崇拝する雰囲気のあった日本の若者に、憧れのアメリカの食べ物として受けたというわけです。

 

いかがでしたか?

今週のお題が「ピザ」と見たときにはどうしようかと思いましたが、意外に雑な日本通史が書けてしまい、面白い体験ができました。なんでもやってみるものですね。

ところで、私は半年前の緊急事態宣言のとき、外食欲を抑えるため、実家を出て以来、初めてピザを焼いてみました。ホットケーキの素と一緒に強力粉も店頭から払底していた時期だったので、「薄力粉 ピザ」で検索したレシピです。薄力粉とオリーブオイルを混ぜてつくったクラストは、ぽろぽろしてちょっと食べにくかったのですが、味はとてもおいしくて、「わーピザだー」という感動を味わえました。このときも、なんでもやってみるものだなと思いました。

何をのせてもおいしいピザ。それは、なんでもやってみることの代名詞なのかもしれません。

 

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うまくキジが伸びなくってカタチは悪いですが、ちゃんとピザですよ。

 

夏川夕

 

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#小学生の時読んでた本を覚えてるだけ挙げる

こんにちは。

夏川夕です。

 

Twitterで、こんな面白いハッシュタグを見つけました。

#小学生の時読んでた本を覚えてるだけ挙げる

小学生の私はとにかく本が大好きな子供で、学級文庫は読み切るし、図書館には週一で通うしで、読んだ本を全部を挙げるのはなかなか無理ですが、我が家の本棚に小学生の時から並んでいる本を書き出してみました。

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バロウズ火星のプリンセス』シリーズ

バロウズ『地底世界ペルシダー』

ヴェルヌ『地底旅行

ドイル『シャーロック・ホームズ』シリーズ

ワイルダー大草原の小さな家』シリーズ

壷井栄二十四の瞳

妹尾河童『少年H』

フランク『アンネの日記

ゲールツ『二度とそのことは言うな?』

 講談社『少年少女 新世界文学全集 日本古典編I』(古事記・今昔物語・平家物語・日本民話)

ウェブスター『あしながおじさん

宮沢賢治銀河鉄道の夜

有島武郎一房の葡萄

ワイルド『幸福な王子』

アンデルセン『人魚の姫』

 

 

実際並べてみると、ほとんど有名どころですね。実家には、青い鳥文庫のあれこれや童話の類もまだあります。ここに書いたのは、幾度も読み返している厳選メンバーというわけです。さすが有名どころ。

厳選メンバーは、上からだいたい「冒険もの」「歴史もの」「古き良きもの」となっています。昔からこういう分野が好きだったのか、あるいはこういう分野が好きだから本棚に残っているのか、それともこういう分野を読んでいたからこそ好きになったのか……。いずれにしても、当時夢中になって読み、今でも大好きな分野ばかりです。

小学生のころは、人生で一番乱読していた時期だと思います。自分の好きな分野がまだ定まっていないのと、時間がたっぷりあるのとで、興味を持ったらすぐにその扉を開けたんじゃないかなと思います。どんなふうに乱読するかというと、例えば恐竜が好きだったことから、ドイルの『失われた世界』を読み、ドイルつながりで『シャーロック・ホームズの冒険』を読み、ホームズが住むイギリスに興味を持って『ボートの三人男』を読み、並行して『失われた世界』と同じ冒険ものの『地底旅行』を読み、作者ヴェルヌの国フランスにホームズの敵がいると知って、ルパンの『813の謎』を読み……。

子供のころの現実の世界は狭いので、こんなふうに、本によって新しい世界への道を次々に見つけていったのですね。そのせいか、小学生のときの方が、本を読んだときの没入感が強かったような気がします。今は、私の好きなものはコレというのがある程度定まってしまっているので、子供のころと同じ読み方をするのは、よく知っている町の新しい道を試すのと同じで、少し億劫に感じてしまいます。

 

年末や引っ越しのとき、本棚の整理をすると、幾度も読み返して見慣れてしまった本は処分しようかなと思うこともあります。けれど、こうやって思い出を手繰ってみれば、自分がたどってきた軌跡を切り離してしまうようで、処分するのはやはり、もったいないなくなりますね。収納力のある本棚が欲しいなと思う今日この頃です。

 

夏川夕

 

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